涼宮ハルヒの消失

I

「ツタヤ」からDVDを借りて、『涼宮ハルヒの消失』を観た。

このとっても逐語訳的なアニメを観て、ぼくははじめて気づいたのだ、キョンの心の中にはSOS団やハルヒに対して、こんなにアンビバレントな感情があったのか、と。

ぼくはずっと「キョンの心は決まっていた」と思い続けてきた。それもまちがいではない。キョンは自問自答に対して「解りきったことを訊いてくるな」と答える。だが、ナガモンが突きつけた選択肢に直面するまで、キョンは「いつもブツブツ言ってばかり」の自分に向き合ったことがなかったのも事実なのだ。

このアニメはキョンがそのアンビバレンツを乗り越えるプロセスをとっても手間暇かけて描き出すけれど、実はそれは原作に書いてあることを逐語訳的に映像化したに過ぎない。このアンビバレンツが、実は『消失』という小説のテーマだったのだ。『消失』とは「キョン自身がSOS団やハルヒに対する自分のアンビバレンツを、ナガモンの暴走を契機に、乗り越える」というお話だったのだ。

それに気づいてはじめて、ぼくはジュブナイルとしての『涼宮ハルヒの驚愕』という作品が何を描いていたのか理解できた。『消失』でキョンはアンビバレンツから抜け出す一歩を踏み出したに過ぎない。彼がSOS団とハルヒのすべてを心から受容できると確信するためには、あの『驚愕』前後編が必要だったのだ。

だから『驚愕』は、世界と自分を受容するのに四苦八苦するという状況を抜け出した大人が読むには、ちょっと退屈な作品だったのだ。

II

映像になったものを見て、はじめてその意味が胸にぐさあっと突き刺さってくるということがある。

病室に入ってきたみくるんが意識の戻ったキョンを見て泣き出すシーン。小説ではさらっと流してしまうけれど、アニメで見ると息の止まるようなシーンである。この瞬間に至るまで自分の目の前で起こってきたことの深刻さの前に、子供みくるんは自責の念で押しつぶされそうになっていたはずなのだ。

もうひとつ。改変後のナガモンにはじめて文芸部室で会ったときのことを、キョンはこう書いている。

長門は立ったままだった。そんなに気になるのか、俺をずっと眺めていたようだ。しかしこちらが顔を向けると、すかさず視線を床に落とす。注意深く見れば頬のあたりがまだ淡く色づいている。ああ……長門。これはお前ではないんだな。お前が顔を紅潮させて困ったように目を泳がすことなんてないものな。

小説で読むと、単に内気さの表現くらいにしか思わない。だがこの姿をアニメで見ると、このびくびくおどおどは内気さとは別のものだ。これは、良心に深い呵責を感じている人の姿だ。つまりナガモンは、自分が世界を改変してしまったことを、キョンが怒っているのではないかと思って、びくびくおどおど怯えていたのだ。

ナガモンは最初から良心に深い呵責を抱えていた。だからこの話は最後に「わたしの処分が検討されている」「くそったれと伝えろ」「伝える ありがとう」という会話で終わる。実はぼく自身は、この話の中でのナガモンの心の動きを少し違うふうに理解してきた。だが、このアニメで描かれている姿の方が、原作の「ふつうの」理解なのかもしれない。

III

最後にナガモンがキョンを訪ねて来るのは病室じゃなかったっけ?と思いながら観ていたのだが、「良心の呵責を抱えていたナガモンがキョンに赦してもらいに来る」というシーンなのだと考えると、「寝ているキョンをナガモンが立って見下ろしながら会話する」というのは位置関係としてはふさわしくない、と思うようになる。

「伝える ありがとう」と言ったとき、ナガモンはキョンを見つめていたのか、それとも目を落としていたのか、さあどっちに描くだろう?と楽しみにしたところ、アニメはどちらにも描かなかった。「これは、観る人の心に任せるべきシーンだ」と、アニメを作った人たちは思ったのだろう。

*

ぼく自身はこれまで「寝ているキョンを見下ろしながら、ナガモンが『わたしの処分が検討されている』と宣言するシーン」というものに違和感を覚えてこなかった。

なぜか。ナガモンは断固自分をさばくつもりでただそれをキョンに伝えに来ただけだ、とぼくは思っていたからだ。そしてナガモンはキョンに赦されて、愕然としたと同時に猛烈にうれしかったのだ。

ぼくはこのシーンをずっとそういうふうに思ってきた。だが、それはぼくがクリスチャンだからかもしれない。

IV

サントラを買わなくても、サティを聴けばあのアニメを思い出すことができる。

*

改変された文芸部室にSOS団が揃い、パソコンが起動して「緊急脱出プログラム」のメッセージを表示し始めたとき、ぼくは泣き出してしまった。

(2016年08月)

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