イエス・キリストを救い主として受け入れた方へ

ところで、イエス・キリストを救い主として受け入れ、生きて働く神の力を恵みとして受けたとき、もっと進んでそうした神の力とともに人生を送りたい、と望まれるかもしれません。そうすると、教会に行って洗礼(と堅信)を受け、いわゆるクリスチャンとして生きていくことになります。

では、クリスチャンとして生きていく中で最大のテーマは何かというと、これは「完全を回復される神の力を待ち望む」ことと同時に、「神の完全から遠く隔たった存在である現在の世界、被造物、そして人々の間で、愛・寛容・忍耐を育てること」になります。つまり「不完全な世界・被造物・そして人々を、そのままの姿で愛し受け入れ耐え忍ぶことを学ぶ」ことになります。

このとき、「神が創造のときにあった完全を回復して下さる」という期待からキリストを受け入れた心からすれば、一種裏切られたような思いを抱かずにはいられません。私たちは世界・被造物そして人々の不完全さによって深くそこなわれてきたからこそ、完全を回復して下さる神に希望を置いたのではなかったでしょうか? その神から「世界・被造物・人々の不完全さを愛し受け入れ耐え忍べ」と言われたら、「神は結局私たちに何をして下さるのだろうか、何もして下さらないのだろうか」と疑いの心を持たずにはいられないのではないでしょうか?

*

ところが、この愛・寛容・忍耐にこそ、神の完全が存在します。理解すべきことは2つあります。

ひとつは、「世界・被造物・人々が不完全である以上、この世で神の完全を実現するために、神はそれら不完全なものを手段として用いるしかない」ということです。イエス・キリストにとって弟子たちがいかに不完全な存在であったかは福音書につぶさに書かれています。ですが、イエス・キリストの十字架と復活の証人として世界に最初の恵みを宣教したのはこの不完全な弟子たちでした。以来、神の完全は不完全な人々の不完全な行いを通して、少しずつではありますが実現してきました。不完全な人々は神の完全を「完全に」実現することはできていませんが、「何が神の完全であるか」については見失わずにいられたのだと思います。これは神が、その愛・寛容・忍耐によって、不完全な人々が不完全なやり方で神の完全を追い求めることをよしとして、不完全な人々をずっと助け続けて下さったからです。

もうひとつは、既成事実の問題として、「神がキリスト以来、不完全な世界・被造物・人々を愛し受け入れ耐え忍んで下さったからこそ、私たちもいまキリストを通して神の回復を体験することができるのだ」ということです。歴史的な出来事として人類が神にあからさまに反抗したとき、というのはあまり思いつきませんが(いつの世にも信仰は何らかの形で存続し続けました)、ひとつの国や文化の中で人々がキリスト教に対してはっきり敵対的な態度を取った場合でも、神がそれらの国や文化を滅ぼし尽くされることはまれだったかと思います。日本はローマ帝国並みに長い迫害の歴史を持つ国ですが、日本はその迫害によって神の怒りを招くより、迫害を耐え忍んだ人々を通して豊かに祝福されました。迫害を耐え忍んだごく少数の人々のために、神はご自分に背いた多くの人々を愛し受け入れ耐え忍んで下さったのです。そして、その恵みの果てに、いま私たちはキリストによる救いを得ているのです。

このように、神の完全は、愛・寛容・忍耐を通して回復されてきました。それは神の恵みにとって不可欠のものであり、聖書は愛・寛容・忍耐それ自体を神の完全の本質的要素だと教えています。そこで、神の完全が回復されることを待ち望むクリスチャンは、自分たち自身が愛・寛容・忍耐を生きることを目指します。もっともそれは、洗礼(と堅信)を通して神の霊を自覚的に受けてはじめて実行できることだと考えられています。いわゆる「博愛」を人間の力で実現できると、クリスチャンは考えません。それは人間の不完全さに対する悔い改めに反することだと聖書は教えています。

*

ある人がキリストを救い主として受け入れるとき、それはその人が「神の完全を待ち望む」ことか「自分自身の不完全をそのまま愛し受容してもらう」ことかのいずれか一方に期待する場合がほとんどで、実際にクリスチャンになったときこの2つの矛盾するテーマを同時に満たせという課題に直面し、そこで「キリスト教は私の願っていたものではない」と思って挫折するというケースがしばしば見られます。「完全を待ち望む」ことに偏ればいわゆる「原理主義」に陥り(教条的な権威主義や不完全な世界との「聖戦」に明け暮れる)、「不完全をそのまま愛し受容する」ことに偏ればいわゆる「ヒューマニズム」に陥る(人間自身の努力で愛を実現できると信じる)ようになるでしょう。

ここでも重要なのは「生きて働く神の力」に直接触れることです。神の豊かな愛・寛容・忍耐によって、自分自身の人生に神の完全が回復されるのを体験するとき、不完全さの受容と完全の回復とがひとつのこととして理解されると同時に、それは人間の実現できることではなく、ただ「生きて働く神の力」によってのみ可能なのだと理解されます。

また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。……愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。 (IIペト3:15,17)

こうした話は、イエス・キリストを救い主として受け入れようとする段階の方にするには少し先走り過ぎていますが、信じた先に何があるのかを正確に伝え、陥りがちな落とし穴を避ける方法がちゃんとあるのだと説明することは、信仰の選択という人生において重要な決断をしようとされる方に対して必要なことだと思いますので、少し書いておきました。

(2016年12月)

«イエス・キリストを救い主として受け入れることをためらっている方へ