千と千尋の神隠し

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1.「子供から見た大人の世界の視覚化」である。京都の木屋町や大阪のお初天神通りに小学校があるが(あったが)、ああいう場所に通う子供たちの目に木屋町やお初天神通りはこんな感じに映っているのだろう。「自分の欲望を思い思いにむき出しにした得体の知れない群衆」の中で自分の父母までブタになってしまうかのように感じられる、というのは、大人の欲望に対する子供の嫌悪感の視覚化なのだと思うけれど、その「子供らしい嫌悪感」を乗り越えたところで「別にブタじゃないんだよね」と気づくことを「魔法が解ける」と表現しているのだろう。

2.「はじめての社会人経験の物語化」である。ぼく自身は京都の島原(むかしの遊郭)や奈良の旅館で皿洗いや風呂掃除をやって、ほとんど逐語的に千と同じような社会人経験をした(先輩たちも実際あんな感じだった)けれど、「新人さん」に職場がどう見えているかという点においては、サービス業にかかわらずどんな職場も大同小異だろう。

3.「カオナシ」の意味は千にとってとお店にとってとでは異なる。それをひとつのキャラとして造形しながら実際にはその姿を千変万化させるというのはこの作品のひとつの技法である。千にとって「よく分からないけれど自分の味方になってくれる」存在というのは社会人経験の浅い人の前に実際に現れる存在である。でもそれを「誰それさん」と認識するには千は「いっぱいいっぱい」だから千にとって「カオナシ」は「顔なし」なのである。一方お店にとって「魅力的かもしれないが想定外の客」というのも実際に現れる存在である。ぼくはお店にとっての「カオナシ」の姿に「日本の観光における外国人観光客」の姿を見るが、それはぼくの感想であって作品の企図したものではないだろう。

4.ハクの物語とは「大人になっていっぱいいっぱいだからこそ直面する、幼少時の記憶への回帰の物語」である。「私なんでこんなところでこんなことやってるんだろう」と思うとき、だからこそ逆に何かの契機でふと幼少時の記憶へ回帰する瞬間があって、ひとはそこで改めて「自分を見出す」のである。千は「ハクを助ける」のだけれど、それは自分で「千尋」を助けることとパラレルである。ちなみに契機はいろいろだ(この作品においては「ハクが傷つきそれを千が助ける」ということだ)けれど、幼少時の記憶への回帰において「旅行」というプロセスは不可欠だと思う。電車に乗っている時間がとっても魅力的に描かれていることはハクを助ける物語において決して副次的なことではない。

5.「魔法使いが双子のおばあさん」だというのもいろんな示唆があるように思うけれど、ぼくは直接的には「社会人経験の浅い人にとって自分が実際に働いている職場より上の階層の人たちのキャラの違いは見分けられない」ということなんじゃないかなと思う。ある人は自分の行く手に立ちはだかり、ある人は自分ひとりでは手に入れられないものを与えてくれる、上の階層の人たちとそんな関わりを持つ機会はあるのだけれど、上の階層の人たちはやっぱり自分の現実とはどこかかけ離れた存在なのである。

6.言ってみれば「10代の後半から30代の前半ぐらいに誰もがそれなりに経験することを、少女を主人公にして『パプリカ』がそうであったのと同じような意味で『幻想的』な映像作品に仕立てた」という作品だと、ぼくは思った。この作品はわりと理知的に「あれは何の隠喩、あれは何の象徴」とかいう見方をする人がいるようにも思うが、ぼくにとってこの作品はもっとずっと体験的なものだ。そういう意味で、いま「ジブリの作品で何がいちばん面白いか」ときかれたら個人的にはこの作品になるだろう。ただ、「これ映画館の大スクリーンで観たらくたくたになったやろうなー」と思う。体験的な作品って、面白いけれど、一方で「凝縮して自分と向き合う」ことであるわけで、それはやっぱり疲れることだ

(2019年04月)

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