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つめたく、あまい。

シギサワカヤを指して「いま日本でいちばん面白いマンガを描く作家」と言ってしまうことにぼくは個人的に何の躊躇もない。だがシギサワカヤの何がそんなに面白いのかということを言葉で表現するのは簡単なことではない。

ずっとそう思ってきたのだが、『つめたく、あまい。』の「あとがき」でご本人が非常にいい表現を使ってらっしゃる。

ええととにかく人間の、言葉だけでも見えるものだけでも説明しがたい膨大な部分が、あれやこれやと面倒なことになっている様がどうしても好きなので、そんなところを少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。

なるほどー、と思う。パソコンのアプリケーションとかで「バックグラウンドで実行する」などという表現が出てきたりするが、たしかにシギサワカヤのお話というのはいつもそういう、バックグラウンドで何かが走っているからこういうことが起こってしまうという物語なのかもしれない。最たる例は「箱舟の行方」だろう。倉田さんと笹原さんの間にあるものが何なのか、この物語は一切説明しないので、これを読んで訳が分からないと思う読者ってきっといっぱいいると思うのだが、幸か不幸かぼくは分かる。

今さらのようだが、「箱舟の行方」というお話のあらすじを書いてみよう。「システム室の笹原さんはエレベータで新人の倉田さんに会うとチューするという習慣がありました。倉田さんは訳が分からないままでもなんか拒めずにいましたが、ある飲み会の夜ふとそんな気になって笹原さんとヤッちゃいました。倉田さんは新人研修の時に田村主任と出会ってつき合い始め寿退社することになりましたが、結局自分の中で笹原さんって何だったのか整理がつかず、最後の最後に会社のエレベータにカンヅメになったどさくさにまぎれて笹原さんとあれやこれやヤッちゃうのでした……。」

「エロマンガかこれは」というようなあらすじだが実際こういう話なのである。倉田さんの「バックグラウンド」で何が走っていたのかこの物語は一切説明しないが、たとえば彼女は笹原さんにチューして欲しくて口紅をつけない、田村主任から口紅を買ってやろうかと言われても断ってしまう、という女だったのである。これを「分かる」と思うか「ふうん」と思うか「バカか」と思うかは人それぞれだろうが、少なくとも「世の中にはこういうことがある」ということが分かるのはある程度大人になってからではないだろうか(こういうことが分かる高校生の女の子とか世の中にはいるのかもしれないがぼくはそういう人とは関わり合いたくない)。

もひとつ、『ファムファタル』の海老沢由佳里さん。

わ…私は 石渡さんとは 付き合わない

ハイくん…とは …大事だけど 離れたくないけど 付き合いたくない…

―― 友だちでいたいの…

ぼくはハイフンの立場に立ったことが人生で何度かあり、いろんな目を見て今年43歳になるが、今なら由佳里さんの言葉を素直にそのまま受け止められる。こんな女っているし、こんな女をそれでも愛することに意味を見出すかどうかは結局男である自分の問題なのであって、見限るなら見限ればいいことだが、かわいいと思うのなら素直にそばにいてやればいいのだ、彼女は喜ぶだろう。ハイフンにそれができないから(……いや、できないものなんですねこれが)、この『ファムファタル』という物語があるのである。ぼくは由佳里さんみたいな女性とどう付き合うかが人生のテーマだったみたいなところもあり、彼女の言動を意味不明だと思う人がいるのかどうかさえ今となっては分からないが、これだってやっぱり「分かる」と思う人と「へえ」と思う人と「バカか」と思う人がいるのだろう。

「箱舟の行方」と『ファムファタル』、この2つは、「バックグラウンド」で走っているものが何なのかということ自体が分かりにくい、というか必ずしも誰にでも分かるものではないという物語だと思うが、これ以外の作品は、どうだろうか、ぼくは『九月病』を読んで釈然としなかったので手放してしまったのだが、それ以外の作品については、「バックグラウンド」というほど難しいものではなく、ひとは自分の感情にあとから気づいていくものだくらいの作品である。たとえば「つまりは病のような。」や「空の記憶」。「空の記憶」というのは、地味な作品だが、すっごく普遍的な作品だと思うし、ぼくはとても好きである。あるいはそれこそ『溺れるようにできている。』他愛もないラブコメをすっごく哲学的に描いたこの作品は好き嫌い分かれると思うが、でも根本的にはシギサワカヤの作品の中ではもっとも平和で甘美で端正な作品である。ついでに『九月病』に関して言うと、ぼくは近親恋愛というものをある程度リアルに想像できてしまうので、自分の中にあるそれと作品に描かれたものとがある程度以上に違うと拒否反応を起こしてしまうところがあるのだろう、というか、ぼくは兄妹の関係しか分からないので、姉弟の関係については想像ができないのだ(そもそもぼくは現実に存在した以上に近親恋愛に耽溺したいとは思わないので、きづきあきらの "WHITE" があればそれで十分なのだ)。

「自分の感情に気づいていくというのはひとつのドラマなのだ」という捉え方の作品がある。これはスポ根や格闘マンガでもあり得るし、それこそ恋愛マンガでもあり得るのだが、あまりにも当たり前の感情に気づくことにことさら感動してみせるとそれは自己陶酔にしか見えない。「アタシはカレが好きなの!キラキラ」みたいな感じで、ローティーン向けの少女マンガだと珍しくないのかもしれないが、大人がそれではみっともないと残念ながらぼくは思う。で、それとは少し違うのだが、秋☆枝さんの『伊藤さん』を読んでも、この作品の「はわわわ」感はたしかに楽しいのだが、「大人なんだからもう少し自分の感情に慣れてもいいんじゃないか」と思ったりもするのだ。この場合は「自分に気づいていくことに未熟」というのではなく「自分に気づいていくことに対して何かがブレーキをかけている」からこうなってしまうのだろうと思うのだが、なんでかなー、もっと素直になればいいのに、と思う(いや、そう思わせるからこそ「はわわわ」感が演出できるのかもしれないが)。

シギサワカヤの作品は、「箱舟の行方」にせよ『ファム・ファタル』にせよ、自分の感情に気づいていくということがテーマになっているとは言えない。「バックグラウンド」で走っている何かの周りを本人の意識はぐるぐる回っているのだが、そのコアにはたどり着けないまま話は進んでいく(「箱舟の行方」の場合はそのまま話が終わってしまう)。一方で自分の感情に気づいていく「はわわわ」感でできている作品がないわけでもない(『箱舟の行方』の「こい、のようなもの」や『つめたく、あまい。』の「往生際で逢いましょう」など)。でも、こういうことを考えていて改めて確認するのは、シギサワカヤという人はドラマツルギーを追い求めているのではなく、あくまでも個別の物語の意味を考え続けながら作品を描く人なのだろうということだ。

もっと言えば、シギサワカヤには「あれって何だったんだろう」という原体験みたいなものがあって、その周囲をぐるぐる回りながら作品を描いてきたのではないか、ということである。そして『つめたく、あまい。』の「あなたさえいなければ。」という作品は、その原体験のコアにとても近い作品なのではないだろうかという気がするのだ。

この物語は「バックグラウンド」で何かが走っている話であり、でも走っているものはわりと普遍的というか何でもないものであり、それに気づいていくことを阻んできたのは精神の未熟さではなくて別の何か(この物語の場合は彼女の性格が「理系全開」だったということ)である。「3年間で15回別れて15回復縁する」というやや奇矯なドラマを掘り下げる形で物語は進んでいくのだが、どうだろうか、この寺田さんという女の子(名前出てこないんだ、といまさら気づいた)は、理系全開であると同時に女の子全開でもあるようにぼくには見えるのだ。そして、シギサワカヤという人は、そもそもこういう主人公を描きたかったのではないだろうかとぼくは思う。なんとなく。『ファムファタル』の由佳里さんは理系だからああなってしまうわけでは全然ないのだけれど、「あなたさえいなければ。」の寺田さんがこうなってしまうのは彼女が「理系全開」だからである。そして、こういう「理系全開・女の子全開」の主人公こそが、シギサワカヤに作品を描かせる原体験のコアなのではないだろうか。なんとなく。

ちなみに、どうしてぼくはシギサワカヤの作品が好きなのかというと、自分が実際体験している恋愛というか男女関係と、この人の作品世界が非常に近いからだ。「会社のエレベータの中で会社の女の子に『死ぬかと思う位感じました』って言わせたいよねー、男のロマンよねー」とか思うのだが、気づいてみると現実問題としてそういう場所からそんなに遠くないところに自分がいたりする。

私、笹原さんのそういうところ ――好

…言っちゃダメ。

今さら思うのだが、恋愛というのは男も女も「一歩たりとも退かない」という形でしか完成できない。行き着いた先に幸せが待っているという保障はどこにもないが、でも退いてしまえば、というか退くことを考えた時点で、恋愛は終わりなのであり、そして終わってしまった恋愛というのは痛みと哀しみしか残さない。

数十年後も 数日後も 1秒後も 想像できないことに変わりなく 保障されないことも確実で

だから 例えば明日 ――例えば数十年後 そんな未来に この数日のことを思い出したとして

この狭い天井や 扉越しの遠い雨音や 傘の向こう硬く閉ざされたシャッター 老夫婦の作る優しい空間

――そういった全てを 私は どんなふうに

……誰と 思い出すんだろう?

こういうことを本気で考えるから、「嵐が丘」の「…そんなの、本望だよ。」というセリフがあるのだ。

――明日のことすら分からない 愚かで不安定なわたしたち、

けれど

不思議ともう 怖いとは 思わなかった。

(2010年4月)

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