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ヴァーチャル・レッド 3

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シギサワカヤの長編(中編?)マンガ『ヴァーチャル・レッド』の最終巻である。

この巻を読むと明らかになることは3つある。

  1. 律夏とは結局どういう女だったのか。
  2. 「藤井」と「由野」と律夏の出てくる物語は結局何だったのか。
  3. このお話は結局どのように終わるのか。

この3点に興味のある方、そしてとりあえず第1巻第2巻を読んで「面白い」と思った方は、ぜひとも第3巻を読まれたい。

*

第3巻を読んで、上記の3点にいちおう解答を得たところで、改めて第1巻と第2巻を読み返す。

そして慄然とするのだ、律夏に対する「由野」の憎しみは、なんて深いんだろう、と。

第2巻だけ読んでいたときにはそうも思わなかったのである。だから第2巻のレビューで、ぼくはこう書いている。

藤井は律夏を失ったことで自分を責め続けている。あるいは、自分を責めずにはいられないほど苦しんでいる。

ざっくり言えば、そうなのである。律夏に対する「由野」の憎しみと「藤井」が抱える焦点の合わない愛しさそして悲しみはほんとうはひとつのものである。だがそれはそれとして、逐語的に言えば、「藤井」と「由野」と律夏のドラマの中で「由野」が責めているのは「藤井」ではなくて律夏である。上に引いた箇所の直後でぼくは「『そうしなければ …生きられない』と彼は思っている」と書いているが、第2巻に出てくるこの「そうしなければ …生きられない」というセリフの前後を台本風に書き直してみると、それがはっきりする。

由野:まだ わかんねぇか ――てめエがそんな簡単に死んだら それこそあいつが無駄死にだっつってんだよ!
    てめぇの都合であの女犠牲にしたんだろうが 自業自得の結果で勝手に苦しんで勝手に楽になりたいってのか ざけんじゃねえ!!

藤井:――でも 悲しい

由野:…だから 悲しまなければ問題ない …それだけのことだ
    あの女は嘘吐きで誰とでも寝る 最低の裏切り者 何をしても構わない …だから。

藤井:…そうか …じゃあ 俺 何も悲しむ必要なんて 無いんだな

由野:…ああ。その通り、――だ。

(由野、メガネを外して藤井になる。)

由野=藤井:そうしなければ …生きられない。 ――だってまだ、……生き続けなければならないのだから。

メガネを外した「由野」は「藤井」になって、律夏に対する愛しさと悲しみと憎しみとはひとつのものなのだ、ということが明らかにされる。いや、セリフの内容の推移からすれば「由野が藤井になる」というよりは「藤井が由野になる」と言う方が正しいだろう。ここは暗転、すなわち「藤井」が「由野」といういわばダークサイドに堕ちるシーンなのだ、「だってまだ、生き続けなければならないのだから。」

そしてこれが、同人誌版『ヴァーチャル・レッド』の実は結末だったのである。

第3巻まで続く作品である、ということを前提としても、通して読み返すならば、この作品の白眉は第1巻から第2巻にかけて描かれる「由野」の律夏に対するはげしい憎悪・嫌悪・侮蔑なのだ、とぼくは思う。女に棄てられた男、女を失った男、そしてそれでもまだ生きていかなければならない男の、その女に対するはげしい憎悪・嫌悪・侮蔑。第1巻だけ読んだとき、ぼくはこの作品を「女」を描いた作品だと思っていたが、第1巻で造形されていた「女」というか律夏という女を第3巻できれいさっぱり説明し尽くしてしまったあとこの作品に残るのは、実は「男」の怨念と執念の物語だったのである。

律夏と「藤井」と「由野」の登場するこの「ヴァーチャル」な心理劇こそがこの作品の本編である。作品の中ではこのドラマは「夢」として語られているが、それはあくまでこのドラマが「藤井由野の内面にあるもの」であるという以上の意味ではないだろう。藤井はこの「夢」について、「夢」の中では律夏のことだけでなく「自分」のことも殺してしまうと語っている(夢の中で藤井は「由野」なのだろう)。だが「ヴァーチャル・レッド」という心理劇の中では、「由野」は「藤井」を殺さない。なぜか。単に「死ねない」からだ。藤井が死ねない以上、「由野」は「藤井」を殺せない。それで、残るものはただ、律夏にかきたてられた何か、律夏に注ぎ込んだ何か、の記憶と、そのすべての裏返しとしての、とどめようもない憎悪・嫌悪・侮蔑だけである。

*

凄まじい作品である。だが、これでは救いがない。

「救いがない」というだけであれば、『さよならさよなら、また あした』にだって『未必の恋』にだって救いはない。だが、シギサワカヤが『ヴァーチャル・レッド』の続きを描くにあたっては、そこに「救い」を描こうとしているんじゃないか、という気が、ぼくは前々からしていた。

もう一度言うが、『未必の恋』の結末には救いはない。「ああいうことに救いはないものだ」と言うと何か説教じみて聞こえるが、そもそも倉田さんだって笹原だって救いが欲しくてああいうことを始めたわけでも続けたわけでもないだろう。それは、そういうものだ。だから「ああいうことに救いはないものだ」という言い方はしていいのだと思う。

『ヴァーチャル・レッド』はそうではない。律夏のことは分からないけれど、藤井は救われたいだろう。

ぼくが男だから、そう思うのだろうか。

*

じゃあ何が救いなのか。これは「そもそも何が苦しみなのか」という問いの裏返しである。

かつて『ファムファタル』のレビューで、ぼくはこんなことを書いた。

信じられる相手を「ファム・ファタル」とは呼ばない。そして「何があっても私は私に責任を取ることができる」と決めている男にとって「ファム・ファタル」は存在しない。

「滅びを目指しているわけではないのに滅びしか目指せなくなる、それが『ファム・ファタル』なのである。」出会わなければ滅びなかったであろう二人が出会ってしまうときに、そういう出会いを成立させた女のことを「ファム・ファタル」と呼ぶのだろう、と考えると、藤井にとって律夏は厳密には「ファム・ファタル」ではなかったのだろう。藤井に出会わなくても律夏は滅びたろうし、律夏と出会っても藤井は滅びはしなかったからだ。だが「あの女はあなたを裏切った末に勝手に死んだの」と母親に言われて「そうですね」と返せない程度には、藤井は律夏を背負ってしまったのだ。

そう、藤井はいちど、自分の意志で律夏を背負ったのだ。だが結局、藤井は律夏のことを完全には信じ切れなかったし、自分と律夏に何があってもそれを自分の責任として引き受け切ることができなかった、「裏切ったのは律夏の方だから」。そして藤井の内面が「藤井」と「由野」に分裂する。「由野」は律夏をきっぱりと憎み、蔑み、貶める。では一方の「藤井」はどうだろうか。

確かに 触れていた 毎日のように 当たり前の様に、 …異常なほどに、

何が、と問う暇さえ与えられず消え失せた

―――彼女は どんな女だった?

第2巻のレビューでぼくはこの藤井のことを「言ってみれば、迂闊だったのだ」と書いた上で、この迂闊さが結局何に起因するのかについて、シギサワカヤ自身が第2巻のあとがきで書いていることばを引いてみた。

皮膚で明確に隔てられた個体に対しての限界。相手に対して、そして自分に対して、透明度のひどく低い視界の中でぼんやりと形を成すもの、が恋愛という現象に思えてしまうのは、多分「ほんとうは」よろしくない事、適切ではない事、なのでしょうね。

ここで語られているのは端的にセックスのことだろう。相手を見据えて自分の心を決める前に相手に何かをかきたてられ何かを注ぎ込んでしまうのは、そこにセックスがあるからである。そして藤井は、結果だけ見ればセックスによって滅びと婚(まぐわ)ってしまったのだ。

「だがそうじゃないだろう」、そこまで藤井は愚かで迂闊な男だったのか、というところから、物語は記憶の糸をたぐり出す。藤井が律夏の何かを信じたのでなければ、藤井が律夏を信じることについて自分で自分に責任を取ることに決めたのでなければ、このドラマに救いはないからだ。

*

そして第3巻で導入されるものがふたつある。ひとつは律夏の過去(と予定されていた未来)。もうひとつは藤井が律夏を引き受け自分の決心に責任を取る契機。またこういう言い方もできる、ひとつは藤井が律夏の話を聞くこと、もうひとつは藤井が大塚さんに自分の話を語ること。

大塚さんの登場は唐突だし、登場以上にやること(ヤること)が唐突なので、彼女の登場に違和感を覚える人もいるだろうなあとは思うのだ。だがこういう形で律夏の運命に自分としての責任を感じる人物が現れ、彼女に対して律夏の運命の何たるかを語ってみせるというきっかけがあって、はじめて藤井は救われるのである。

そう、「藤井は救われなければならない」という大前提のものに、第3巻は始まって終わる。律夏が自分の過去と未来に関する「お伽噺」を語ったとき、藤井はその「お伽噺」を「書き換え」させるのである。その時のことを、藤井は大塚さんにこう語る。

無明の道の如き現実を受け入れ 彼女を支える事が俺に出来るか 不安で 苛立ち、焦り、 その一方で

…やっと 彼女の抱えた荷物を 俺も一緒に持つ事が出来ると…

(第12章 If Then)

「いやいや、こんな大事な決心を10年以上自分で忘れていたはずがないだろう」と思う。その上で、「俺も一緒に持つ事が出来る」と藤井の思った「荷物」を、律夏は実際には藤井に預けなかったのである(「藤井の知らない男の無理心中に巻き込まれた」というのはそういうことだろう)。だから、だから「由野」はあんなに律夏を憎み、蔑み、貶めてきたし、「藤井」は結局律夏を理解することができなかった無力さに打ちひしがれてきたのだ。そうじゃないのか?

だが一方で思うのだ、「そんな10年以上の葛藤をひとことで片づけてしまおう、『この子のためなら』、と思えるぐらい、藤井にとって大塚さんは特別な存在だったのかもしれない」と。

「あいつはひどく要領が悪いけど」 …「けど」の後はすぐには思い付きはしなかった

(第8章 Critical Error)

律夏について「けど」の後は「これから考えればいいと思っていた」のに、大塚さんとは出会って2度目にヤッちゃうのだ、藤井は。だがそれを「ああ、シギサワカヤのお話に出てくる女はいつでも簡単にヤッちゃうよなあ」とかで片づけるべきではない。これはもちろん特別なこと、律夏について「けど」の後を続けられないでいる藤井が生きて抱えているすべてを一瞬にして飲み込んでしまえるくらい(飲み込むことを彼女に許すぐらい)、藤井にとって大塚さんが特別な女だったということなのだ。一方、その飲み込んだもの(モノ)の責任は、藤井ではなくて大塚さんが自分で背負ってきたのである。だから大塚さんは、律夏の運命についても自分の責任なんじゃないかと思い続けてきたのである。

「いや、もしそうだとしたら、藤井は律夏のことを、実際には大塚さんの何分の一にも思ってなかったの?! そうだとしたら、律夏のことを『彼女の抱えた荷物を俺も一緒に持つ事が出来る』なんて言ってみせる藤井は、実際には律夏に対して誠実さのひとかけらもないっていうことなの!?」というツッコミもありそうである。そしてそれは、そうなのだろう。「藤井」と「由野」の「ヴァーチャル・レッド」の中で「藤井」があれだけ律夏を見失って彷徨い続けるのは、結局のところ「藤井」が、つまり藤井由野が、律夏のことを愛し切れなかったからである。愛し切れなかったのに引き受けてしまった、その迂闊さの耐え難さゆえに、「由野」は「藤井」を律夏に対する呪詛へと引きずり込もうとし続けるのである。

そんな藤井にどんな「救い」があるというのか、どんな「救い」があっていいというのか、と思うだろうか。

だが逆に考えてみよう。藤井が命ある限り律夏のことを心の奥底で憎み呪い蔑み貶め続けることが、誰の、何のためになるというのか。呪われているのが藤井自身であるなら、それは「罰」なのだろう。だが「ヴァーチャル・レッド」のドラマは「律夏を呪う『由野』の憎悪・嫌悪・侮蔑・呪詛に『藤井』が食いつぶされていく」というものなのである。それは、間違いだろう。律夏にとって間違いであるように、藤井にとっても間違いだろう。

そこに、この物語の「救い」、解放、出口、何と呼んでもいいが、が見出されるのである。そしてそれをもたらすのが、藤井が律夏のことを語ってみせることのできる、大塚さんという相手なのである。

…だからさ、アレは本当に「不運な事故」で 且つ 「起こるべくして起こった事件」だったんだ

(第12章 If Then)

「そんな言い方ってない」と思うだろうか。でもこういう言い方で律夏のことを「昔話」にしてしまうのと、律夏のことを記憶の中で愛し直そうとしつつそうすればするほど律夏のことを憎み呪い蔑み貶め続けることと、どちらがマシなのか。

藤井は前者を取ったのだ、相手が大塚さんだったから。そして言うのだ、

……行っといで もう 大丈夫だから

「誰が」大丈夫なんだろう? 「君が」大丈夫なのか、「俺が」大丈夫なのか、と思うのはぼくだけだろうか。それは結局、律夏の運命について自分の責任じゃないかと思い続けてきた大塚さんが心配していたのは「誰」のことだと思うか、「私」のことだと思うか、それとも「藤井さん」のことだと思うか、ということである。そしてぼくは、第8章に描かれた一夜の出来事を読む限り、後者だと思うのである(ドライなように見えて実はすっごく情の濃い女というのが、シギサワカヤの作品にはときどき登場する。『箱舟の行方』所収「ワールズエンド・サテライト#2」に出てくる女の子とか)。

*

こうして藤井は救われた、自分の話を大塚さんに聞いてもらうことによって。では律夏は?

「律夏が藤井に『お伽噺』を聞いてもらった」ということが、律夏にとっての救いになったのだ、という話になる。

彼女が一瞬 息を呑んだのがわかった ややあってから彼女は 確かにこう言ったんだ

「…大丈夫 です 私には 今 話す人が 居るんです!」

「彼女」はあの時 ……笑ってたんだ 嬉しそうに 「話す人」が居るという事を…

(第13章 End If)

「彼女はすべてを話したわけじゃない」と言ってみせることに、もはや意味はない。自分自身のたぎらせてきた呪詛から解き放たれた藤井の心の中で律夏が笑う。「全ては仮想かもしれない」。だがいま藤井は、自分の心の中で笑う律夏の、実在を信じようとする。

決して見えない 触れない 残せない そんな大事な 何かはあるのだ

*

自分一人だけの力で描き続ける自信が無くなり

(第1巻 あとがき)

このレビューを書くにあたって、このことばの前にしばらく思いをめぐらす。

最初に書いたように、分かってみるとこの作品は、同人誌版のラストまでですでに、女を失った男の怨念・執念についてはあますところなく描き切っている。ぼく自身は最終巻を読むまでそのことにきちんと気がつかなかった。だが、それはぼくの読解力が足りなかったせいなのかもしれない。

律夏が「リアル」の世界でどういう運命を生き、そこに関わった藤井の「ヴァーチャル」で何が起こったか、について、この作品は最初から完全に構成されていたのだろうとぼくは思う。ではなぜ、最初から完全に構成されていたはずの作品を、シギサワカヤは「描き続ける自信が無くな」ったのだろうか?

思うのは、シギサワカヤは、この作品に描いてしまった女に対する男の呪詛、嫌悪・憎悪・侮蔑、怨念・執念というものに、少なからず苦しめられたのではなかったろうか、ということである。

ひとことで言ってしまえば、この作品は「男が女をその弱さゆえに憎む」という話である。「救いのない」話だ。シギサワカヤにとって「描いていて楽しくない話」だったろう。いや、「楽しくない」という次元では済まなかったかもしれない。

それでぼくは、「この作品の最終巻では救いが描かれるだろう」と思った。「救いが描かれなければならない」と思った。誰のために? おそらく、この作品を描き始めてしまった、シギサワカヤ自身のためにだ。

ぼくは、そう思う。「そう願う」と言ってもいい。読者としては、おそらく男でも女でも、女を失った男の怨念・執念・憎悪・呪詛というものがあますところなく描き切れてさえいれば「これはそういう作品なのだ」ということでいいのだと思う。だが作者が、女性である作者がそれをそのまま放置することに耐え難い思いを抱いたと言われたら、それは察するに余りある。

だからこの作品が「救いを描いたせいで作品としての価値や完全さをそこなった」ということはあってはならないと思った。「そう願った」と言ってもいい。

このレビューは、そういう願いのもとに書いた。ぼくはもともと「ある作品が現にそういう姿であることそれ自体に異議をさしはさむ」ようなレビューは書かない主義(どうしても異議のある作品についてはレビュー自体書かない)なのだが、今回は特に「この作品に描かれた救いの姿を受け入れる」ことを強く意識した。「そうしたいと願った」と言ってもいい。

思うのだ、シギサワカヤに対して。描き続けて欲しい、という以上に、「もう苦しまないで下さい」と。

そう願っている。そしてこれは、そんなレビューである。

(2013年10月)

おまけもひとつおまけ

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