カテゴリー「マンガ:ナヲコ」の8件の記事

「グダグダにしないと壊れそう。」

2013年が終わる前に、ぜひとも書いておかなければならないことがある。

今年の2月、墨公委先生のブログにノーコメントで紹介されていた、ナヲコ『プライベートレッスン』のレビューなのだが、一読して思った、「ああ、そうなのか。」

このひとははっきりさせるのが怖いんだろうなと。言語化したがらないんですよね。……「好き」とか「嫌い」とかいう言語化する行為に対して体力が持たないというよりは、言ったら関係が終わっちゃうと信じてるフシもあるんですよ。

ナヲコ先生のコミックスはそういう発してるものに読者の自意識まで巻き込んでしまう繊細さがある。(上掲)

オレは、それに巻き込まれていたのだ。

だから、オレの書いた『プライベートレッスン』のレビューは、あんなにグダグダなのだ。

*

そのことを自覚したところで、じゃあ「巻き込まれず」にあの作品のレビューを書くとどうなるか。

やってみた。

はね先輩の演奏を聴くとり姉の横顔、「『いやあ、そうだろうねえ』と思う。」その上でラストのセリフ、「鳥子のセリフのようにも思えないだろうか?」

「言いたいこと」は、間違いなくこれで尽きている。もっと言えば、このレビューはたった2行にさえ要約できる。

うけとめているふりをし続けて 拒み続けてたんだ

「いやあ、そうだろうねえ」と思う。「そうだろうよ。」 

*

改めて『プライベートレッスン』を読み返し、オレのレビューがこの2行に要約できるというか、実際この作品自体、とり姉が「うけとめているふりをし続けて、拒み続けてた」ことを描いているだけだよなあ、と思う。

その上で、それに「いやあ、そうだろうねえ」と思う、のはなぜですか、と改めてきかれると、困る。

はね先輩やたまごが胸に秘めているものが分かるから、分かるから、拒み続けていた、そのとり姉の気持ちが、オレにも分かるから、である。

なんで?

「だって、読めば分かるじゃん。」

なんで?

そこでふと、答に窮する自分がいる。なんで「読めば分かる」のか。

感受性の問題として、作品に描かれているとり姉のことが分かるから、なのか、オレ自身が実際とり姉のような体験を重ねていまここにいるから、なのか。

ナヲコ先生のコミックスはそういう発してるものに読者の自意識まで巻き込んでしまう繊細さがある。

なるほどなあ、と思う。なるほどなあ。

*

「プライベートレッスン」というタイトルのレビューでは、書くべきことにたどり着けなかったのである。それで、「マリみてを知らない僕らだから」という文章を書いて、その文章の終わりにやっと書くべきことをねじ込んだ。

グダグダ、というレベルではない。

何だろう、自分のやっていることなのに、書くべきことが書けるようになるのを「待っていた」のである。立川談志のような噺家が、客に聴かせるためというより自分が噺せるようになるのを「待つ」ためにまくらをしゃべるみたいな、『プライベートレッスン』のレビューを書くのは、そういう体験だった。「マリみてを知らない僕らだから」という文章は、そうして生まれたのである。『ブルーフレンド』の話がしたかったわけでも、『ひみつ。』の話がしたかったわけでも、『少女セクト』の話がしたかったわけでも、それこそ百合の話がしたかったわけでさえない。「プライベートレッスン」というタイトルの文章ではたどり着けなかった話に、どうやったらたどり着けるだろうと、わざわざすっごく遠回りしてみたのである。

「マリみてを知らない僕らだから」というタイトルは「偽与野区役所」さんの『英雄(ヒーロー)にはなれない僕らだから』をもじったものである。今はYouTubeで公開されているようだが、もともとは日本のFlashアニメの代表作だった。実はぼくは全編通して観たことがないのだが、使われている音楽が印象的なのである。

『プライベートレッスン』のレビューに「マリみてを知らない僕らだから」というタイトルをつけたとき、あの曲が頭の中をよぎったかどうか、今となっては覚えていない。結果的に、「マリみてを知らない僕らだから」という文章は、ぼくの文章の中では比較的読まれることの多い文章になった。不思議な気がする一方で、あの文章はそれはそれはていねいに書いた文章だから、そういうところがひとから評価されるのかなあ、とも思う。ちなみにあの音楽だけを聴きたい方はTANAKA Uさんの「ぽっきーの小部屋」というFlashゲームで「ぽっきー」にピアノを与えて「ながい曲」をリクエストするといい。

*

そういえば、上掲「仮想指定」さんのレビューを読んで、面白いと思ったことがもうひとつある。

ヒロイン達は音楽が好きで音楽に関しては「好き」といえる。だから音楽を通してしか「好き」と相手に言えないんです。

恐らくナヲコ先生は言語の力と同じくらい音楽の力を信じているからだと思います。

ここまで来ると漫画で音楽を描くことが、ナヲコ先生の不特定多数の社会とコミットする方法じゃないかとも思えてきます。 (上掲)

墨公委先生から "voice/link-1" という同人誌をいただいて、レビューを書いたとき、「実は最初はこんなことを思っていたんだよ」ということを「おまけ」に書いた

いま引いた「仮想指定」さんの指摘を読むと、実はその「おまけ」に書いたことは間違ってなかったのだ、と感じる。

「ないと思っていた扉、それが HINA の声だった」というのをこの作品のキモだと思っていた

もちろん「このお話の主人公はあくまでもえとまもるであって HINA の声じゃない」というのも間違いではない。なぜかというと、まえがきに「つ、続き物になりました。」と書いてあるからである。読み切りだったら、この作品のキモはたしかに上に書いたとおりだったろうけれど、ふたりの関係が進展していく中で、HINA の声がずっと主人公であり続けることは考えにくかろうと思うのである。

続き物だということを念頭に置いて、何度も読み返して、冷静になれば、そういうふうに考えるようになるのである。だが、"voice/link-1" に描かれている「ときめきのクライマックス」は、やっぱり HINA の声あってこそである。この作品を単体で見るなら、そう考える方がやっぱり自然だろう。

そのことに、上掲「仮想指定」さんのレビューを読んで、気づくのである。

*

「マリみてを知らない僕らだから」。

「『いやあ、そうだろうねえ』と思う。『そうだろうよ。』」

女の子どうしが「恋」をする、なんて、ふつう一も二もなく受け入れられることじゃないだろうよ。

そういうことなのだ。読者が何を「百合」とみなすか、という話を、「マリみてを知らない僕らだから」という文章はしているが、それが「まくら」に過ぎないのは、ぼくがそこでほんとうに書きたかったことは、「とり姉が『拒み続けてた』ものこそ『女の子どうしの恋』すなわち『百合』そのものだった」ということだったのである。

書いてしまうと、あまりにもふつう過ぎる話である。そして、これだけでは、それにもかかわらずそのふつう過ぎる話でマンガを一巻成立させてしまう、とり姉というキャラの魅力がまったく分からない。

*

それを言葉で説明するのも無粋だと思う。思うけれど、ここまでポイントが絞り込まれてきたら、言葉で説明することも不可能ではないんじゃないか、そう思って、もう一度『プライベートレッスン』を読み返す。

そして気づくのだ、すべてははね先輩のピアノを聴いてとり姉が思わず涙したところから始まったのだ、と。

音を介して、とり姉とはね先輩、とり姉とたまごの関係がある。それを「仮想指定」さんは「ナヲコ先生は……音楽の力を信じている」と書いている。"voice/link-1" の場合はそういう言い方でいいと思うのだけれど、『プライベートレッスン』の場合はちょっと違うようにぼくは思う。はね先輩は、自分の音を聴いて、何かを感じてくれるとり姉が好きなのだ。たまごは、はね先輩の音を聴くとり姉を見て、いろんなことを考える。ここにあるのは「感受性が理解され合う」という局面である。そしてこれは、"voiceful" にも "voice/link-1" にもない。HINA をかなえに向けさせるのはかなえが HINA の声に感じたもろもろのことではなくそこからかなえが絞り出した「ヒナが生きていてくれてうれしいです」という言葉である。もえは、HINA の声に自分が感じることをすっとばして、まもるのことを見つめている。

『プライベートレッスン』はそうではない。はね先輩もたまごも音を介さずにとり姉を見つめるようになってしまう。けれどはね先輩の恋心を拒み続けるとり姉とはね先輩との関係が壊れずにいるのは、「とりちゃんのためだけにピアノを弾く」、そのこと自体はとり姉に通じているのだと、はね先輩が分かっているからである。とり姉の感受性を、はね先輩は信じているし、そのこと自体は、とり姉も分かっている。

互いの感受性を信じ合うことによって成り立つ関係。

それは、『プライベートレッスン』のレビューを書く場合、オブジェクト・レベルとメタ・レベルが入れ子になっている。はね先輩ととり姉、そしてたまごの関係がそうであるように、書いているナヲコ先生と読者との関係もそうである。そこを截然と描き切ることが、当時のぼくにはできなかったが、「批評と孤独」という文章でその問題をダイレクトに扱ったいまとなっても、ぼくにはやっぱりできない。『プライベートレッスン』のレビューである2つの文章のうち「プライベートレッスン」というタイトルのものが、この問題を扱っている。ドラマをたどっても信じられている感受性の輪郭にたどり着けないと、当時のぼくは思ったのだけれど(いま見たように冷静になればそれは不可能ではなかったのだけれど)、じゃあどうすればそれにたどり着けるのかということも分からない。そんな中で苦しまぎれに書いたことが

同じお話を、もっと「貧しく」描くこともできる、と思うと、ナヲコさんの作品を読むということは、結局はひとが生きて分かっていくことの豊かさに触れることだと知るのである。

という言葉だった。「ひとが生きて分かっていくことの豊かさ」それ自体がテーマとして描かれているのか、それともあくまで描き方の問題として「豊かに」描いているということなのかが、この文章の中ではごっちゃになっている。字面を読めばたぶん後者に読める。だが改めて考えれば考えるほど、この作品にとって感受性とはテーマそのものだし、ぼく自身はレビューを書きながら、そのことを意識していたのである。

*

こう考えると、「『プライベートレッスン』のレビューがグダグダだったのは、要はオレが未熟だったというだけのことだな」という気もする。レビューはレビューでひとつの文芸作品だということでいいのかもしれない。だが散文というものはやっぱり截然と論理的であってこそ散文だろう。そう考えると、「仮想指定」さんのレビューは、論理的かというと感覚的なところもあるけれど、作品の持つ力に抗して作品それ自体を言い当てるという点では、あきらかに截然としている。

一方、ぼくの書いた『プライベートレッスン』のレビューは2本とも失敗作なのだろう。あれは「ナヲコ先生のコミックスが発しているものに自意識まで巻き込まれた一読者の手記」である。もっとも、そこが世間の方々には「それはそれで面白い」と思っていただけるのかもしれないし、書き手としてはそれはそれでありがたいことである。

おまけ。というかこれがぼくにとっての「グダグダ」にならない『プライベートレッスン』のレビューなのかもしれない。

(2013年12月)

voice/link-1 と @maria

Voice_link01

墨公委氏からナヲコ先生の同人誌を2冊いただいた。貴重な同人誌をお送りいただいてたいへん恐縮しているのだが、せっかくなので、簡単ではあるがレビューを書いておく。

"voice/link-1"。「ないと思っていた扉があって、開かないと思っていたのに開いて、誰もいないと思っていたところに人がいた」、とりあえず、そんな出会いの物語である。「同じシンガーが好き」というだけなら「趣味が同じだと分かって意気投合しました」というだけの話だが、この作品がそれで終わりにならないのは、お互いがお互いに「私はこの人と出会えると思わなかった」というときめきを胸に秘めているからだろう。

そして、そのときめきのクライマックスゆえに、このお話はここで終わってもいいような気がするし、ぜひとも続きが読みたい気もするのである。

おまけもひとつおまけ

*

Worldsend

"worldsend"。とろくさい菜槻は小さい頃からしっかりした七瀬に面倒見られっぱなし。ところがある夜七瀬は珍しく酔っ払ってしまい菜槻は七瀬を自分の部屋に泊めることになる。二人でひとつのベッドに入って、酔いから醒めた七瀬は菜槻に何か言いかけるのだが菜槻が眠ってしまうので言葉を引っ込め、ただ菜槻の寝顔を見つめる。

それが、上のコマである。七瀬は菜槻に何を言おうとしたのだろうと考えるが、このコマに見て取れるのは、ただ七瀬が菜槻のことを「かわいいなあ」としみじみ思っているということだけである。そして気づくのは、七瀬はずっとそうしてきたのだろう、ということだ。七瀬が菜槻にずっと厳しく当たってきたのは、七瀬が菜槻のことをずっとかわいいと思ってきたからである。

そのことと、このお話のオチそしてタイトルとの関係はゆるやかである。その夜、世界が滅びると信じていなかったら、七瀬はお酒も飲まずハメも外さず菜槻と「一夜を共にする」こともなかったのだろうか、そして七瀬は、世界が滅びると信じて、今まで言わなかったひとことをあえて菜槻に告げようとしたのだろうか、そしてそのひとことって、結局何だったのだろうか。すべては読者の想像に任されている。

*

At_maria01

"@maria"。大学で知り合ったさかえから自分の長年の文通相手「まりあさん」をおとしめられて傷つく繭子。しかし実はそのさかえこそほかでもない「まりあさん」その人だった。いたたまれなくなったさかえはある日「まりあさん」として繭子の前に現れて積年の不実を告白する。

上のコマは、その告白を聴く繭子の眼である。ここにあるものは何だろうか。まず驚き。さかえが「まりあさん」であったという告白に対する、驚き。次に当惑。「まりあさん」のやさしさはうそだったのだというさかえ本人の告白に、「まりあさん」をおとしめた先日のさかえの言葉が重なって起こる、当惑。

そして、喜び。「本当のまりあはつめたくてうそつきだよ」といってさかえが泣くからこそ、繭子の心の中に沸き起こるのは、自分はほんとうに「まりあさん」に出会っているのだ、自分にとってずっとずっと特別だった人とついに対面しているのだ、という喜びなのだと思う。

その喜びが驚きと当惑を凌駕したとき、繭子は、さかえに向かって手を伸ばす。今まで「まりあさん」に対して決してできなかった「触れる」ことを、繭子はさかえに対してするのである。

At_maria02

「ずっと ありがとう まりあさん」。

*

この同人誌をいただいた際に添えられていた墨公委氏の手紙に、こういうくだりがある。

ナヲコ先生は先月もエンターブレインのアンソロジーにも作品を寄せておられ、引き続き同社の雑誌などに登場されるのかとの期待もある反面、ブログツイッターも長らく音沙汰なしで、いろいろと気が揉まれます。

これを読んでぼくが思うのは、ナヲコ先生がまたぼくのブログを目にされて、「批評と孤独」を読まれたのかなあ、ということである。「ぼくはこの『ありがとうございます』に、ご自分の道を行かれるナヲコ先生の後姿を見る思いがする。……ぼくも、ぼくの道をひとりで歩まなければならない。ひとりで歩まなければ、ぼくはぼくとしては、誰とも出会えない。」

ひとりで歩む方だから、「出会い」のもっとも美しい姿を描けるんじゃないだろうか。そんなことを、たとえば "voice/link-1" に、あるいは "@maria" に、思うのである。

(2012年12月)

批評と孤独

去年の秋ごろから「墨東公安委員会」氏とメールの交換をさせていただいているのだが、最近いただいたメールに、こういうくだりがあった。

なお、ご存じかと思いますが、昨年末にナヲコ先生がツイッターでつぶやかれていた「作品の感想 http://twilog.org/worldsend24/date-111226 」とは、内容からしておそらくとびさんの記事を指しているものと思われます。

拝見した。その日、ナヲコ先生はこんなことを書いてらっしゃる。

posted at 03:50:34
作品の感想を書いてくれてるページを見かけて泣いた;;確かにそうなのだろう、わたしは物語を語りたいがために漫画を描いているのではないのかもしれない。

posted at 03:50:54
だけどそれを受け止めてくれる人はそんなに大勢ではないのだ。そこをどうにかして大勢の人に受け止めて欲しいと思うより先に、そうでありながらこの先も漫画を描いていくにはどうすべきかを考えている。

posted at 03:51:10
だからわたしは商業漫画家としては弱いのだろう

(Twilog ホーム ≫ @worldsend24 ≫ 2011年12月26日)

……ナヲコ先生は、ぼくが書いた記事の次の箇所を読まれて、こう書いておられるのだろうか。

作者が、人間的にいろんなことを消化した上でこの作品を描いている。そしてそれを、いちいち説明しない。ひとはたいてい、自分が生きて何を分かってきたか、いちいち説明しないものである。だからこの作品も説明しない。マンガを描くということは表現の営みだから、作者が分かってきたことが作品の上にもちろん表われる。だが、このマンガにだってお話があるのだから、作者のとりあえずの仕事はお話を描くことであり、読者がとりあえずやることもお話を読み取ることである。その中にどれだけの「作者が人として分かってきたこと」がちりばめられているか、あるいはひそんでいるか、そしてそれを読者がどの程度読み取れるのか、というのは、お話それ自体にとっては本来は二の次である。

でも、ナヲコさんの作品は、そこが豊かなのだ。同じお話を、もっと「貧しく」描くこともできる、と思うと、ナヲコさんの作品を読むということは、結局はひとが生きて分かっていくことの豊かさに触れることだと知るのである。そういうことを、ぼくはたとえば冒頭の「お… ひとみしり」という鳥子のひとりごとにも思うのである。……

『プライベートレッスン』

墨公委氏の指摘が正しいかどうか、ぼくは確かめようもない。だがネット上でナヲコ先生の「作品の感想」を多く読んでらっしゃる氏がおっしゃるのだから、そうなのだろう。

ぼくの方こそ、胸がいっぱいになる。

「創作という営為が孤独であるように、作品を読むという営為もまた孤独なものである」と思う。そのふたつの孤独が、ここで無媒介に出会っている。ほんとうは「無媒介」であるわけがない。『プライベートレッスン』という作品があって、ぼくのブログとナヲコ先生のツィッターがあって、それを両方読んでいる墨公委氏がいて、こうやって実際に出会っているのだから、いま書いたもののすべては媒介なのである。だが、ツィッターで互いのツイートをフォローし合うという関係を「インタラクティブ(双方向的)」と呼ぶとすれば、創作という営為と作品を読むという営為とは本来はおそらくそうではない。作家は作家として、たったひとりで追い求めている何かがあって、読者はそこに、作品を通じて「分かる」こととは何だろうと追い求める。人間の営為として作品が成立しているという理解を欠いたところで作品を語ることはむなしいとぼくは思う。が、一方で読者の仕事は、必ずしもつねに「作家がたったひとりで追い求めていることの核心を射止めること」ばかりではない。現に成立してしまった作品は作家自身とは別の生き物であるのも事実だからだ。

だから、今回のようなケースは「創作という営為の孤独と、作品を読むという営為の孤独とが、無媒介に出会っている」と呼んでいいのだとぼくは思う。「邂逅」という言い方は少し違うと思う。作家と読者はこういう出会い方ができるのだと思うが、さっきも書いたように、こういう出会いを追い求めることが批評の理想なのかというと違うだろうとぼくは思っている。だが、こういう出会い方は間違いなく衝撃的だ。「泣いた」と書かれているが、同じように誰かに「泣かれた」ことが、ぼくはこれまでの人生ですでに何度かあったような気がする。気づくのは、気づかされるのは、孤独だ。作家がたったひとりで追い求めている何かの片鱗に触れてしまったとき、その何たるかを「分かろう」とし続けてきた自分もまたそれをたったひとりで追い求めてきたのだ、と知る。作家に対し作品に対し、いや「生きて生み出す人間の営為」に対し、まるで愛する人に声ひとつかけず指一本触れず愛し続けるような孤独の中で、自分が向き合ってきた、ということに気づく、気づかされる、のである。媒介は、今はたしかにある。いくつものテクノロジーが、何人もの人が、作家と読者をつないでくれる。だが、このブログの元原稿は基本的には日記なのである。誰にも読まれないまま、ぼくが死ねばPC本体とともに処分されただけのものなのである。そして大事なのは、にもかかわらず読んで、書いてきた、という営為が、ぼくの人生にはあったのだ、ということだ。そのとき、ぼくはずっと、ひとりだったのだ。自分にとって生きることはそういうことだと思って、ぼくはそうしてきたのだが、そうやって書いてきた文章を読んで、作家ご本人が泣いている、と言う。ああ、何という道のりだろう。たった一瞬の出会いに比べて、私たちがひとりで歩んできた時間の、何と長かったことだろう。

posted at 04:37:48
そうたくさんはいないはずの「見てくれる人」に、感謝してます…「生かされている」という言葉はこういう時に使うんだと思う。ありがとうございます。

(ナヲコ先生、上掲ツイートのつづき)

上掲ツイートのつづき、というかしめくくりなのだが、ぼくはこの「ありがとうございます」に、ご自分の道を行かれるナヲコ先生の後姿を見る思いがする。「あなたがいてくれるから、私は私の道をひとりで歩いて行けるのです」という意味の歌が、この世にはときどきあるよな、と思ったりする。

ぼくも、ぼくの道をひとりで歩まなければならない。ひとりで歩まなければ、ぼくはぼくとしては、誰とも出会えない。

※追記

冷静になってみれば、『プライベートレッスン』のレビューに関しては、墨公委氏というプロデューサーがいたから成立したわけである。だが、その墨公委氏に見出された『ボイスフル』『からだのきもち』『ディファレントビュウ』のレビューについては、ぼくが図面描きをしながらただ作品の力に突き動かされて日記に書いたことそのものである。今回の文章はやや感傷に流れて不正確なことを書いたきらいがないでもないけれど、ツイートに接して感じたことをいちおうそのまま書かせていただいた。最後の一文は、少なくともこのブログに収録された文章を書くにあたっては、いつも、そう、ただの日記の時代から、心においていたことである。

改めて、墨公委氏に感謝申し上げたい。あと、ナヲコ先生、いつまでもお健やかに。

(2012年03月)

マリみてを知らない僕らだから

Private_lesson02

自分の金で酒を飲み始めた頃、入りびたった店に、ママがカウンターだけのスナックをショットバーにしつらえて学生にバーテンダーをさせる、という趣向の店があった。ママは遅い時間にしか来ないので、早い時間はその学生たちとしゃべるだけである。そんな中に、学校は忘れたがトランペットを吹いている男の子がいた。専門は音楽だったのだが、マンガとかにも詳しい、まあいま言うところの「オタク」である。あるときぼくが「『ガンフロンティア』面白いですよね」と言うと、彼は「松本零士の原点ですよね。男は殺す、女は犯る。」と答えた。鮮やかな答だと思ったものである。ちなみに当時「オタク」というのはもっと特異な人たちを指す、明らかな蔑称だった。

あるとき彼が店に彼女を連れてきた。眼鏡で乱杭歯の、ふつうなら「彼女です」と言われたら「ええー?!」というタイプの女の子なのだが(失礼)、ぼくは最初から気に入った。話していて分かったのだが、彼女も「オタク」だったのだ。「啓発」ということばの語感がぼくはあまり好きではないのだが、クリエイティブでありたいと願って生活している若者には、お互い焚きつけあうパートナーが必要で、彼女は明らかにそれに足る女の子だった。

その彼女とマンガの話をしていて、江川達也の『BE FREE!』について、彼女がこんなことを言った。

「私は伊福部昭子というのはいいキャラだと思うんですよ。もっと活躍させるといいと思うのです。」

当時のぼくは驚いた、と言ったら、今なら逆に驚かれるのかもしれない。しかし「ある物語の登場人物に、その人物がその物語の中で現に担った以上の、あるいは以外の、役回りを期待する」というのは、少なくとも当時のぼくにとってはあり得ない話だった。いや、これはぼくにマンガ雑誌を読む習慣がなかったからなのかもしれない。毎週週刊誌を買っているマンガファンにとって、来週起こるであろう物語の展開を想像することはまったくふつうのことで、彼女もそういう中で伊福部昭子に期待していたのかもしれないが、たしかその話をした時点で、『BE FREE!』はすでに10巻ぐらいまで出ていたのだ。

この、なんでもない会話が、その後ぼくの中にずっと、「ひとは物語の登場人物にどの程度まで想像をたくましくするものなんだろう?そしてそれは、どこまで『まっとう』なことなのだろう?」という問題意識を植えつけた。そして、ぼくは今でも、オタクの人たちの間ではいたって普通に存在する「二次創作脳」とでもいうものを、オタクの人たちと全く同次元で理解することはできずにいるのだと思う(同じ意味で、女子アナがタレント化するというのも、ぼくには理解できない。テレビ視ないから関係ないけど)。ぼくは『赤の7号』の愛読者で、あのサイトには「『シスプリ』のファンの中にはエロ同人を作品に対する冒涜だと思って受けつけない人もいるんだけど、自分としては『妹たち』に対するこういう愛もあるんだと思っているのです」みたいなことがどこかに書かれていて(ほんと?)「なるほど」と思ったりするのだが、それを「なるほど」で済ませられるのはぼくが結局のところ『シスプリ』を知らないからだけなのかもしれないと思ったりもする。

*

"HK-DMZ PLUS.COM" の11月16日の項に「りぼんで百合 ブルーフレンド3巻 『これが新世代の百合マンガ!』」という「アキバBlog」の記事が引かれていた。ぼくは引越の荷づくりをしていたのだが、「へえ」と思って新逗子駅の「いけだ書店」に行き、第3巻から読んでも訳が分からないだろうと第1巻から第3巻まで買ってきて昼食後読んだ。

うーん。

第1巻・2巻と第3巻は全然別のお話なのだ、と知っていたら、第3巻だけ買って済ませたのかもしれない、と思った。性的虐待で傷ついた女の子を友人が慰める、というのは「百合」ではないだろう。ぼくは同性愛の出発点に性的虐待があるということは、話にしばしば聞くだけでなく、実例としても知っている。同性愛うんぬんという議論の中で最初にあった性的虐待がうやむやになってしまうことは正しくないことだろうと、ぼくはずっと思っている。そういう、むずかしい場所にきちっと降り立った作品に対し(いや、絶対に力作なのだ、『ブルーフレンド』の第1~2巻は、ふつうの少女マンガとして考えれば)、あえて「百合」と言ってしまうことに、ぼくは抵抗を感じた。何か、二重に無頓着ではないか。第3巻はもっとかわいいお話なのかもしれないが、ぼくは結局第3巻を読まなかった。

で、池袋で墨公委氏に会ったとき、手土産代わりに3巻とも渡したのである。すると後日、氏から感想のメールが来た。

……この『ブルーフレンド』の良さもまた、「恋愛ではない」人間関係について描いているところにあると思いますので、帯にあるような、そして世間ではどうもそう読まれているらしい、「百合作品として」云々という読み方は、作品から得られるものをわざわざ狭めているように思われ、遺憾です。

「普遍に通じる」可能性を、ありきたりで実態として空虚なレッテルを貼り付けて済ませるほどもったいないことはありません。……

こうして読み返すと、氏はこの物語の中できちんと成立する友情の美しさに心を打たれているのだなあと思って、それはぼくが抱いたような、性的虐待に対する憤りとは方向が違うのだけれど、ともあれ「遺憾です」という表現のストレートさに、ぼくはとても納得したものである。

*

性的虐待の問題を除いても、『ブルーフレンド』を「百合」と呼ぶことにはぼくは違和感があった(実は、読みながら思っていたのはむしろそっちの方だった)。「同性愛と云ふのは性愛あつてのことかと思ふので、乙女たちの友愛をさしてひとしなみに『百合、百合』と云ふのは違ふのではないかと私には思へてなりません」などと(なぜか旧かなで)思ったものである。

しかし、このブログでこれまで扱った作品でも、たとえば『ボイスフル』だって『百合姫』だし、『くろよめ』だって『つぼみ』である。「同性愛と云ふのは性愛あつてのことかと思ふ」というのは間違いではないと思うが、「百合」と云ふのも性愛あつてのことなのかと言われたら、ぼくは返答に窮する。いったいオタクの人たちにとって「百合」って何なのだろう?女の子が仲良ければみんな「百合」なのだろうか?

そんな話を、墨公委氏と会ったときにひとことだけした。「『マリみて』って、読んだことがありますか?」「いえ。」

『マリみて』を知らない氏とぼくは、結局自分の「百合」観で「百合」作品を読むしかないのだ。

*

関西に戻って荷物を片づけながら、大朋めがねという人の『ひみつ。』というマンガを買って読んだ。

この作品に描かれているのは、「女の子を好きになる例のやつ」のおそらくとっても現実的な姿である。もなよさんは「男は嫌い。」なのだ。ぼくは女の子からホモだと思われて心を許され、ふつうの男だと知られて去られるという経験を一度ならずしている(これはぼくにとって二重にかなしい経験である)。だから、本当に男が嫌いな女の子がいるということをよく知っている。それで、思うのだが、このマンガって、セクシャリティに関して自分のことを男だとふつうに思っている男が読んで、面白いのだろうか?女性が女性を恋人に持つというドラマのとても現実的な姿を、この作品は独特の絵で美しく作品化することに成功しているのだろうとは思うのだけれど、この作品に登場する女の子たちとセクシャリティに関して同じような問題に直面したことのない男がこの作品を読んで一も二もなく面白いと言ったとしたら、それはどこか奇妙だと言わざるを得ない。いや、「ひとのセクシャリティというものに関心があるのです」と言われたら、まあそういうことはあるのだろう。ぼく自身がそうだったし、大朋めがねさんという方だって男性であるらしいとWebサイトにあるのだ。

*

「女の子どうしの友情をひとしなみに『百合』と呼ぶのは違うのではないか。」「乙女達の同性愛を『百合』と呼んだとして、それは男にとって愛でるべき対象であり得るのか。」いや、冷静に考えればそうかもしれないところを妄想まみれにするのがオタクなんじゃないかと言われたらそうなのかもしれない。いま「腐女子 カップリング」でグーグル検索して出てきた「2ちゃんねる」のまとめサイトを読み、「マウスポインタとEXEファイルのカップリングにランタイムを割り込ませる」とかいうのを読みながら「……ああ、分かるよ」と思うのだ。小学生の頃、複雑な分数計算の問題を解きながら(答がたしか1なのである)、「追っ手を振り切ってお姫様を助ける王子様のお話みたいですね」みたいなことを言って、分かってくれる人が回りにいなくて驚いたことがあったな……と思うのだ。セクシャルな要素があるかないかは大きな違いかもしれないが、ことの本質は同じであるような気がするのだ。

*

今にして思えば、『少女セクト』というのは別に同性愛というものを問題意識を持って描いた作品ではなかったわけである。『マリみて』のことを「浮き世離れした」と形容した文章を読んだことがあるような気がするが、『少女セクト』だって十二分に「浮き世離れした」作品だったろうと思う。

あの作品で友情とか愛情とかが性愛に転げ落ちてしまうのは、ほぼつねに一方が「思いつめる」からである。そして、「思いつめる」ということ自体は、セクシャリティの問題を超えて男の心にも生じる。あの作品が人気を博したのは、絵柄といいキャラといいそのセリフ・会話といい、あらゆるものが「あざやか」だったからだと思うのだが、読者をあの作品に収録されたさまざまなお話につなぎとめていたのは、登場人物たちの「思いつめる」心の普遍性だったんじゃないだろうか。

*

「何の話がしたいんだ?」と思われるだろうか。これは実は、『プライベートレッスン』のレビューの続きなのである。

*

…こんなこと 一生 人に言うつもりは なかったのに

そう言って、はね先輩は泣くのである。

とり姉はそれにどう応じるか。

うけとめているふりをし続けて 拒み続けてたんだ

「いやあ、そうだろうねえ」と思う。「そうだろうよ。」

でも、とり姉だって、乗り越えてきたんだよ。

拒み続けるものには、拒み続けるものなりの、乗り越えるべきものがあったんだよ。

*

『普遍に通じる』可能性を、ありきたりで実態として空虚なレッテルを貼り付けて済ませるほどもったいないことはありません。

「大事なことなので二度言いました」というのが、流行っているようである。ちなみに上の一文、ぼくはちゃんとQ要素でマークアップしている。 ひとの発言だし、本来の文脈ではないからだ。

*

はね先輩が演奏会で弾いていたのは、本当に『最後から2番目の思想』だったような気がしてきた。

「ユーチューブ」で右側に出てくる、チコリーニという人の演奏がすごくいい。前の記事にリンクを設けたので一聴されたい。

(2011年12月)

プライベートレッスン

Private_lesson01

ラストの

わたしたち 一緒にいても いいよね?

って、どっちのセリフだろう?

そりゃ、たまこのセリフなんだろうけど、鳥子のセリフのようにも思えないだろうか?

*

池袋で墨公委氏から『プライベートレッスン』をいただいたのである。それが「レビューを書け」という意味だということに気づくのはしばらく経ってからである。中華料理屋でビールを飲んで氏と別れ、赤羽の宿に戻って酔っ払ったままとりあえず読んで寝た。翌朝、東京駅に出て「ひかり」に乗り、車内でひと息ついてまた『プライベートレッスン』を読み返した。窓の外では品川と新横浜が後方に流れていった。前夜は雨だったのだがその日は朝から晴れだったのである。

「いい作品である。」のひとことでレビューを終えてはダメだろうか、と、これで見納めかもしれない関東の風景を車窓に眺めながら、考えた。

作者が、人間的にいろんなことを消化した上でこの作品を描いている。そしてそれを、いちいち説明しない。ひとはたいてい、自分が生きて何を分かってきたか、いちいち説明しないものである。だからこの作品も説明しない。マンガを描くということは表現の営みだから、作者が分かってきたことが作品の上にもちろん表われる。だが、このマンガにだってお話があるのだから、作者のとりあえずの仕事はお話を描くことであり、読者がとりあえずやることもお話を読み取ることである。その中にどれだけの「作者が人として分かってきたこと」がちりばめられているか、あるいはひそんでいるか、そしてそれを読者がどの程度読み取れるのか、というのは、お話それ自体にとっては本来は二の次である。

でも、ナヲコさんの作品は、そこが豊かなのだ。同じお話を、もっと「貧しく」描くこともできる、と思うと、ナヲコさんの作品を読むということは、結局はひとが生きて分かっていくことの豊かさに触れることだと知るのである。そういうことを、ぼくはたとえば冒頭の「お… ひとみしり」という鳥子のひとりごとにも思うのである。それはたまこが人見知りであることに鳥子が気づいたということだけではなく、それを鳥子がかわいいと思ったということでもあり、同時にちょっといじめてやろうと思った、ということでもあるのである。たったひとことだけど、ひとつの物語のすべてを決する、すごく鮮やかな幕開けだと、ぼくは思う。

あと、この作品はどの視線からでも読める。ぼくはこの作品を「たまこの視線から見たとり姉のお話」だと思う。そういう描き方をすることによって、あえてとり姉自身には語らせないままお話を進める部分が、この作品にはあるからだ。でも「いやいや、これってたまごちゃんのお話でしょ?」と言う人は当然いるのだと思う。この作品の中では、誰もが誰かに見られ、誰かに想われているのだ。たまごもとり姉も、はね先輩も、籠原さんも、みきちゃんも。だから、この作品が誰のお話に見えるかというのは、結局のところ読み手の心が誰に傾いているかによるのではないかと思う。そして、ぼくの心はもちろんとり姉に傾いているのである。

そうしたことに気づいた上で、ではぼくがこの作品に気づいたこととか、この作品は結局どういうお話だと思うのかとか、そういうことをひとつひとつ書いていく必要があるのかな、と思うのである。そういうことをいちいち言わなくてもいいように、この作品はできているのだ。この作品は、なんというか、そういう「ふんわりと多面的で奥深くできている」のです、と言っておけば、あとのことは読み手の心の中にありさえすればそれでいいのではないだろうか。

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こんなふうに考えたのは、別にそのとき前日の酒が残っていてレビューを考えるのがめんどうくさかったからではない。ナヲコさんに『ボイスフル』という作品があるが、あのお話のコアはたったひとつ、ひなの声である。マンガだから、声を描くことはできない。だが、心が叫ぶことを知っている人は、その声を聴くのである。その声を聴くかどうかで、あの作品が心に響くかどうかが決まる(「その声が聞こえるかどうか」ではない。聞こえている耳をあえてふさぐ人だって、あの作品の前ではいるだろう)。

『プライベートレッスン』はそうではない。だから、この作品が「ふんわりと多面的で奥深くできている」というのは、この作品のれっきとした特徴である。

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この作品が「ふんわりと多面的で奥深くできている」ところには、作者が読み手の感性に期待というか安心しているところがあるのかな、と思ったりする。つまり「こういう描き方でこのマンガの読者は分かってくれるだろう」ということだ(そして、ぼくの記憶にある『なずなのねいろ』という作品には、そういう安心感に基づく表現の余裕というものがなかった。版形が小さいのでそう感じるという部分もあったのかもしれないが)。もしそうであるなら、それはまず何と言っても「百合専門誌」という掲載誌の性格によるのだろうが、それとあわせて、今回モチーフになっている音楽がピアノであるということは、関係があるように思うのである。この作品に描かれている、ピアノを弾いたり聴いたりという体験は、『ボイスフル』で描かれているような次元の、歌を歌ったり聴いたりする体験(ひとをハッとさせられるほどの歌を歌える人に出会うことはまれだとぼくは思う)、あるいはそれこそ『なずなのねいろ』の、三味線を弾いたり聴いたりする体験よりもずっとポピュラー、日本語でいえば「敷居が低い」ものである(そう、「なんで三味線なんだろう」と思ったものだ、『なずなのねいろ』を読んだときには)。つまり、読み手の多くの人が、自分のピアノ体験に引きつけて、この作品を理解できるのだ。

ぼく自身はピアノのボキャブラリーがひどく偏っており、『プライベートレッスン』で弾かれるはずの曲を場面ごとに適切に思い浮かべることができない。とり姉がたまごに初めて弾いた曲は、kotokoさんの『覚えてていいよ』だったのだろうか、と思ったりする(生粋のロックピアノというと、ぼくはあれしか思い浮かばない)。そして、はね先輩が演奏会で弾く曲は、「静かな音だ…」と言われると、エリック・サティの『最後から2番目の思想』なのだろうか、と思う(『ノクチュルヌ』より『最後から2番目の思想』の1曲目の方が、ぼくの中では「静かな曲」なのだ。ちなみに『アヴァン・デルニエール・パンセ』って、本当は「ふたつ前に考えたこと」ぐらいの意味なんじゃないんだろうか)。なんか、連想が極端過ぎるのだが、その間に適当な音楽が思い浮かばない。そして、『バイエル』というと、ぼくは1番の「ドレドレドレドレ、ドレドレドレドレ、ドー」しか知らない(いまは「ユーチューブ」というものがあるので「78番」がどんな曲かということもちゃんと分かる)。仕方がないので、この作品全体を通じて、バッハの『二声のインヴェンション』を頭の中でBGMとして流すことにするのだが、「この作品が念頭に置いているのは、バッハじゃないよなあ」と思う。

世界中のひよこピアニストに「ピアノを弾く」満足感を味わわせた音楽家として、ぼくらの世代には、リチャード・クレイダーマンという人がいたなあ、とぼんやり思い出す。『バイエル』にてこずっている人が楽しく弾けるアニメの曲、というのがぼくにはパッと思い浮かばないが(だいたいそんな「誰もが分かるアニメの曲」というのが『トトロ』のあの歌、「さんぽ」というのだといま知った、ぐらいしか思い浮かばない)、もうちょっと弾けるようになった子供たちにとって、リチャード・クレイダーマンを弾くことがめくるめく体験だったということを、ぼくは知っている(どうも、クレイダーマンの曲というのは、弾くのがとっても簡単なのだそうだ。いま「ユーチューブ」で見るとそうも思えないけれど)。そして、ピアノを弾くことの喜びに立ち会うという意味でなら、クレイダーマンを聴かされるというのもそれはそれで素敵な体験だろうと、いまのぼくは思う。バカみたいな音楽だけれど、世の中には「バカみたいであるがゆえの輝き」ってあるのだ。「歌におもいでが寄り添い、おもいでに歌が語りかけ」るものなのであれば、クレイダーマンが弾けたということがまぎれもない喜びであったことを、今だから告白できるという大人も結構いるんじゃないだろうか。だから、今はバッハやプロコフィエフやバルトークを弾いています、という人が、数十年ぶりにクレイダーマンを聴いて、じーんとするというのも、全然恥ずかしいことじゃない、とぼくは思う。人が生きてきた、というのは、そういうことだ。

(2011年11月)

ディファレントビュウ

『ディファレントビュウ』。うぅんんーーー。「ひとの感情のむずかしい部分と上手に向き合うよなー」と思う。ただ「それをどう生き抜けばいいのか」という部分が描かれない、というのは、主人公たちがあまりに幼過ぎるからだ。「感情の真実と意志の未熟」、そのこととロリータ・コンプレックスというのとは関係があるのかもしれない。「たからもの」「世界のおわりでまってる。」、大人だったら乗り越えられる感情だと思うけれど、「ひとの心の中にあるもの」というか「誰もが一度は抱いたことのあるもの」であるのは間違いない。何というか、胸の苦しくなる作品集である。『からだのきもち』を読んで「テンション・ナビゲーション」にどこかホッとするのは、自分の感情の真実に自分で気づいていける余裕が登場人物たちにあるからだろう(その「テンション・ナビゲーション」を読んで胸が苦しくなるという人も世の中にはいる。大人である読み手にとってあまりに真に迫るテーマだからかもしれない)。「たからもの」についてのひとことに「おもいで。親が見たら泣くかもしれない。」と書いてあって「どういう意味だろう」と思うが、作品を読み返して「どういう意味であれ」泣くかもしれない、と思ったりする。そういう「感情というもののむずかしさ」を、この人は凝視し続けながら生きているのだろう。

(2009年4月)

テンション・ナビゲーション

玉置勉強『恋人プレイ』(幻冬舎文庫)とナヲコ『からだのきもち』『なずなのねいろ』(徳間書店リュウコミックス)を探していたのだが、西川口の「ブックオフ」で『恋人プレイ』の第2巻以外あっさり見つかる。なんでここはこんなに何でもあるのだろう?

帰宅するまでに、『からだのきもち』をひととおり読んでしまったのだと思う。それで『なずなのねいろ』を読むのだが、なんというか、作者本人が思っているように「なずなのねいろ」(彼女の奏でる音楽)が主人公になり切れていない感じがする。物語展開がやたら煩瑣な気がするのは、たぶん登場人物を一挙に増やし過ぎたせいと、その登場人物がみなそれぞれの心のゆらぎを抱えているからだろう。そして、それらのゆらぎを貫いて一本通そうとするとき、それが「なずなのねいろ」ではなくそれに惹かれた男の子の姿になってしまっているところが、それでいいのか、という気にさせるのだと思う。

で、読んでいて気に入った『からだのきもち』を読み返す。読み返すのだ、この人の作品は。読み返したくなる、というのもあるし、読み返さないと分からない、というのもある。ほとんどの作品は一読して分かるのだけれど、「デュオメイト」のかすみちゃんがどうしていきなりディルドーなんか突っ込むようになっちゃうのかよく分からなくて、読み返しても「性欲のない小学生が『もっと 繋がりたくなって…』通販でディルドー買っちゃったりするのかなぁ?これが高校生の心理だとしたら分からなくもないけど……」と思う。あと「ナキムシのうた」って、ショタ、ショタというけれど、こういうドラマってふつうにあっていいんじゃないのかなぁ、とか、まあそういうことを考えながら読んでいたのだが、「テンション・ナビゲーション2」まで来て、

ラストのさやの独白の意味が分かって、

悶絶する。

悶絶する。「愛している」という言葉で尽くせないものがこの世にあるとしたら、それはこの独白に書かれていることだけだろうとぼくは思う。「恋とセックスを描いて、これ以上に大事なことなんてほかにない」と思う。だから、この世にセックスを描いた作品はごまんとあるだろうが、この独白があれば、ぼくは十分だ。

もうエロマンガなんて要らない、と思う。ああ、『少女セクト』や『マカマカ』を手放したことに今や一片の悔いもない。それで、『恋人プレイ』を読む理由と、ついでに『ちょこみんと』を読み返す意味を見失う。『からだのきもち』、オレが死んだら棺桶に入れてくれと遺言に書こうかと思うが、遺された人たちにしてみればなまじ怨念を誘発するだけに見えるのかなぁとどうでもいいことを考える。

(2008年11月)

ボイスフル

Voiceful03 この記事は2008年11月に書いたものを2011年2月に少しだけ推敲した「再放送」版である(「ナヲコ」だったタイトルを「ボイスフル」に変更し、スキャン画像を掲載した)。改めて思うのだが、ぼくはナヲコさんの作品の中でこれがいちばん好きだ。いちおう「百合姫コミックス」だが、この作品に描かれている人間関係は、非常に極限的な姿ではあるけれど、「友情」なのだとぼくは思う。人がひとに夢を見る、そのあやうい危険な賭けが、ほとんど「幻想的」と言っていい美しさで成立している作品である。

ぼくはこの作品のレビューを載せたくてこのブログを作ったのである。そして、現在誰かがぼくのブログの記事にハイパーリンクを張って下さっているとはっきり知っているのも、この記事をはじめとする「カテゴリー:ナヲコ」の3つの記事だけである。「再放送」のもともとの趣旨は「最新記事としてアップロードし直す」ことだが、この記事についてはせっかくのリンクが切れるのが心苦しいので元の文章のリニューアルという形にする。

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『ボイスフル』(一迅社百合姫コミックス)。表紙を見て「これはすごいんじゃないか」と思い、実際にページをめくって胸が張り裂けそうになる、そんなマンガ。

Voiceful02 この人の絵というかマンガ表現で好きなところが2点ある。ひとつは人物のプロポーションがリアル。とくに印象的なのは第3話の回想シーンで歌い終わってくずおれるヒナを見下ろす、ギターを持ったひるの立ち姿。こういう絵ってあまり見たことがない。もうひとつは「歌の翼に」のラストのコマ、翼を表現するのに翼を描かず腕に羽衣みたいなのが絡んでいる絵を描くところ。これは翼を描いてしまったら興ざめだったろう。第2話で「わたしを生かしてくれた ヒナの声」を思い出すかなえの脳裏に浮かぶ画像も同じような感じで、結局「歌」が「風」として描かれている。Voiceful04Voiceful01

「ボイスフル」というお話に描かれているドラマは現実にはたいへんイタい話なのだと、メディアの向こう側にいる人を好きになってしまった経験のある人間は思う。かなえがヒナの歌に見出したものとヒナの現実との間にそれほどの齟齬がないからこのお話は成立するのだが、こういうことはたいていはまれなので、現実にはヒナはかなえを一笑に付すこともできず、かといってかなえとつき合い続けることもできず、かなえは自分の心に自分でひとつ新しい傷をつけるだけのことになってしまう。

Voiceful05 このお話でヒナがずっとかなえに見合う「等身大」の存在でいられるのは、ネットを主たる活動場所にしている人たちの多くが「ふつうの人」であるというイメージがあるからだろうか。「アイドルとひきこもりの友情を描く」と言ってしまうと非常に都市伝説めいたウソくさい話に見えてくるが、このお話の中ではヒナはあくまでひとりの女の子であってそれ以上の存在ではない、むしろ「それ以上の存在になりたがらない」から、かなえの友達になれるのである。そういうヒナの造形を可能にしたのが、ヒナを「架空の歌姫」として成立させることのできるネットのイメージなのだろう。 Voiceful06

(2011年2月)