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ナウシカ

環境問題とアニミズムがなければ成立していない物語であるのは明白なのだが、この物語の哲学的なテーマは「罪と絶望」である。「私たちが絶望と隣り合わせに生きているのは状況が悲観的だからではなく私たちが罪深いからだ」という事実に直面しながら、だから「楽観的な状況を作りさえすれば私たちは希望を持って生きることができる」という「墓所の主」のテクノロジー万能主義は明確に否定できるのだが、それでも「私たちは罪深さそれ自体をどうやって克服すればいいのだろう」という問いに対する答にはどうしてもたどり着けない、そういう物語である。「すべての生命が苦悩の中で生きている」ということ、その深さと広がりは分かるのだが、そのことが何らかの倫理的標準に直結するかというとそうではない、そういう「かゆいところに手が届かない」もどかしさが、この作品の後半には色濃くなる。「私は分かっているのに、私は彼らのために何かがしたくてたまらないのに、そして私はずっとそうしてきたのに。」

ナウシカが墓所の主を滅ぼしてやったことは、墓所の主以外のすべての生命に対して「私はあなたを知っている」と言ってみせることだった。王蟲や粘菌に対してそうしたように、ナウシカはクシャナやミラルパに対してもそうすることができたしそうしたくてたまらなかったのだ。そしてこれが、ナウシカの最大の魅力だったのだろうと思う。苦悩や絶望と隣り合わせに生きているすべての生命に対して「私はあなたを知っている」ということ。それは「愛」という言葉では語りつくせないが、あえて呼ぶなら「愛」としか呼べない。

「罪」があって「絶望」があって、それを乗り越えて生きるためには「愛」がなければならないのだけれど、それでもやはり「さばきと赦し」がなければ「罪」はいつまでも「絶望」を蔓延させ続けるだけである。『ナウシカ』という物語は、「罪」のとめどない深さに「愛」のとめどない深さを対置して終わる。「愛」のとめどない深さを知るものは「罪」のとめどない深さの前に踏みとどまることができるはずだ、ということである。つまり、クシャナとチャルカは二度と愚行を犯さないだろう、ということだ。多分それはそうだろうとは思うのだが、ただそれは実際問題としてであって、哲学的には何の保証もない。

この作品は最初「偉大な魂」を描こうとしたのではなかったろうかと思う。深い苦悩と立ち向かう偉大な魂を描くということ。しかし現実にはそうはならなかった。この作品が「愛より偉大なものはない」という事実に行き着いたのはたしかなのだが、それでもどのような偉大も、どのような愛も、絶望とは対峙できても罪とは対峙できないし、そして絶望の源泉は罪なのである。「絶望に立ち向かうために必要なのは悲観を楽観に変える知恵ではなくて苦悩をつつむ愛なのだ」と、ナウシカは墓所の主の前で声高に宣言してみせるが、罪についてはもう取り扱うことができないでいる。土鬼の罪、トルメキアの罪、墓所の主の罪、そしてナウシカ自身の罪。

罪それ自体は赦されることがない、ということが、この作品の暗さを作っている。ヴ王はクシャナの前で悔い改めたりしないし、クシャナもヴ王を赦すとは言わない。ミラルパもナムリスもヴ王も死ぬし、トルメキアの王子たちもひとりは死に、あとの2人もこの世には戻ってこない。土鬼とトルメキアの間にも和解があったとははっきりとは書いていない。暴力の暴力たるゆえん、すなわち罪の罪たるゆえんを微に入り細にうがって描いている作品であるにもかかわらず「誰がなぜさばかれて誰がなぜ赦されるのか」を描かないがゆえに、この作品は登場人物が直面する虚無や絶望を振り切れていない。『コナン』が明るくて『ラピュタ』が暗いのも同じ理由からだろう。

ただ、この暗さにこそ自分の運命を仮託したファンも当時は多かったのではないだろうかと思う。何よりぼく自身がそうだったのではないだろうかと思う。

(2007年6月)