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ヴァーチャル・レッド 3

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シギサワカヤの長編(中編?)マンガ『ヴァーチャル・レッド』の最終巻である。

この巻を読むと明らかになることは3つある。

  1. 律夏とは結局どういう女だったのか。
  2. 「藤井」と「由野」と律夏の出てくる物語は結局何だったのか。
  3. このお話は結局どのように終わるのか。

この3点に興味のある方、そしてとりあえず第1巻第2巻を読んで「面白い」と思った方は、ぜひとも第3巻を読まれたい。

*

第3巻を読んで、上記の3点にいちおう解答を得たところで、改めて第1巻と第2巻を読み返す。

そして慄然とするのだ、律夏に対する「由野」の憎しみは、なんて深いんだろう、と。

第2巻だけ読んでいたときにはそうも思わなかったのである。だから第2巻のレビューで、ぼくはこう書いている。

藤井は律夏を失ったことで自分を責め続けている。あるいは、自分を責めずにはいられないほど苦しんでいる。

ざっくり言えば、そうなのである。律夏に対する「由野」の憎しみと「藤井」が抱える焦点の合わない愛しさそして悲しみはほんとうはひとつのものである。だがそれはそれとして、逐語的に言えば、「藤井」と「由野」と律夏のドラマの中で「由野」が責めているのは「藤井」ではなくて律夏である。上に引いた箇所の直後でぼくは「『そうしなければ …生きられない』と彼は思っている」と書いているが、第2巻に出てくるこの「そうしなければ …生きられない」というセリフの前後を台本風に書き直してみると、それがはっきりする。

由野:まだ わかんねぇか ――てめエがそんな簡単に死んだら それこそあいつが無駄死にだっつってんだよ!
    てめぇの都合であの女犠牲にしたんだろうが 自業自得の結果で勝手に苦しんで勝手に楽になりたいってのか ざけんじゃねえ!!

藤井:――でも 悲しい

由野:…だから 悲しまなければ問題ない …それだけのことだ
    あの女は嘘吐きで誰とでも寝る 最低の裏切り者 何をしても構わない …だから。

藤井:…そうか …じゃあ 俺 何も悲しむ必要なんて 無いんだな

由野:…ああ。その通り、――だ。

(由野、メガネを外して藤井になる。)

由野=藤井:そうしなければ …生きられない。 ――だってまだ、……生き続けなければならないのだから。

メガネを外した「由野」は「藤井」になって、律夏に対する愛しさと悲しみと憎しみとはひとつのものなのだ、ということが明らかにされる。いや、セリフの内容の推移からすれば「由野が藤井になる」というよりは「藤井が由野になる」と言う方が正しいだろう。ここは暗転、すなわち「藤井」が「由野」といういわばダークサイドに堕ちるシーンなのだ、「だってまだ、生き続けなければならないのだから。」

そしてこれが、同人誌版『ヴァーチャル・レッド』の実は結末だったのである。

第3巻まで続く作品である、ということを前提としても、通して読み返すならば、この作品の白眉は第1巻から第2巻にかけて描かれる「由野」の律夏に対するはげしい憎悪・嫌悪・侮蔑なのだ、とぼくは思う。女に棄てられた男、女を失った男、そしてそれでもまだ生きていかなければならない男の、その女に対するはげしい憎悪・嫌悪・侮蔑。第1巻だけ読んだとき、ぼくはこの作品を「女」を描いた作品だと思っていたが、第1巻で造形されていた「女」というか律夏という女を第3巻できれいさっぱり説明し尽くしてしまったあとこの作品に残るのは、実は「男」の怨念と執念の物語だったのである。

律夏と「藤井」と「由野」の登場するこの「ヴァーチャル」な心理劇こそがこの作品の本編である。作品の中ではこのドラマは「夢」として語られているが、それはあくまでこのドラマが「藤井由野の内面にあるもの」であるという以上の意味ではないだろう。藤井はこの「夢」について、「夢」の中では律夏のことだけでなく「自分」のことも殺してしまうと語っている(夢の中で藤井は「由野」なのだろう)。だが「ヴァーチャル・レッド」という心理劇の中では、「由野」は「藤井」を殺さない。なぜか。単に「死ねない」からだ。藤井が死ねない以上、「由野」は「藤井」を殺せない。それで、残るものはただ、律夏にかきたてられた何か、律夏に注ぎ込んだ何か、の記憶と、そのすべての裏返しとしての、とどめようもない憎悪・嫌悪・侮蔑だけである。

*

凄まじい作品である。だが、これでは救いがない。

「救いがない」というだけであれば、『さよならさよなら、また あした』にだって『未必の恋』にだって救いはない。だが、シギサワカヤが『ヴァーチャル・レッド』の続きを描くにあたっては、そこに「救い」を描こうとしているんじゃないか、という気が、ぼくは前々からしていた。

もう一度言うが、『未必の恋』の結末には救いはない。「ああいうことに救いはないものだ」と言うと何か説教じみて聞こえるが、そもそも倉田さんだって笹原だって救いが欲しくてああいうことを始めたわけでも続けたわけでもないだろう。それは、そういうものだ。だから「ああいうことに救いはないものだ」という言い方はしていいのだと思う。

『ヴァーチャル・レッド』はそうではない。律夏のことは分からないけれど、藤井は救われたいだろう。

ぼくが男だから、そう思うのだろうか。

*

じゃあ何が救いなのか。これは「そもそも何が苦しみなのか」という問いの裏返しである。

かつて『ファムファタル』のレビューで、ぼくはこんなことを書いた。

信じられる相手を「ファム・ファタル」とは呼ばない。そして「何があっても私は私に責任を取ることができる」と決めている男にとって「ファム・ファタル」は存在しない。

「滅びを目指しているわけではないのに滅びしか目指せなくなる、それが『ファム・ファタル』なのである。」出会わなければ滅びなかったであろう二人が出会ってしまうときに、そういう出会いを成立させた女のことを「ファム・ファタル」と呼ぶのだろう、と考えると、藤井にとって律夏は厳密には「ファム・ファタル」ではなかったのだろう。藤井に出会わなくても律夏は滅びたろうし、律夏と出会っても藤井は滅びはしなかったからだ。だが「あの女はあなたを裏切った末に勝手に死んだの」と母親に言われて「そうですね」と返せない程度には、藤井は律夏を背負ってしまったのだ。

そう、藤井はいちど、自分の意志で律夏を背負ったのだ。だが結局、藤井は律夏のことを完全には信じ切れなかったし、自分と律夏に何があってもそれを自分の責任として引き受け切ることができなかった、「裏切ったのは律夏の方だから」。そして藤井の内面が「藤井」と「由野」に分裂する。「由野」は律夏をきっぱりと憎み、蔑み、貶める。では一方の「藤井」はどうだろうか。

確かに 触れていた 毎日のように 当たり前の様に、 …異常なほどに、

何が、と問う暇さえ与えられず消え失せた

―――彼女は どんな女だった?

第2巻のレビューでぼくはこの藤井のことを「言ってみれば、迂闊だったのだ」と書いた上で、この迂闊さが結局何に起因するのかについて、シギサワカヤ自身が第2巻のあとがきで書いていることばを引いてみた。

皮膚で明確に隔てられた個体に対しての限界。相手に対して、そして自分に対して、透明度のひどく低い視界の中でぼんやりと形を成すもの、が恋愛という現象に思えてしまうのは、多分「ほんとうは」よろしくない事、適切ではない事、なのでしょうね。

ここで語られているのは端的にセックスのことだろう。相手を見据えて自分の心を決める前に相手に何かをかきたてられ何かを注ぎ込んでしまうのは、そこにセックスがあるからである。そして藤井は、結果だけ見ればセックスによって滅びと婚(まぐわ)ってしまったのだ。

「だがそうじゃないだろう」、そこまで藤井は愚かで迂闊な男だったのか、というところから、物語は記憶の糸をたぐり出す。藤井が律夏の何かを信じたのでなければ、藤井が律夏を信じることについて自分で自分に責任を取ることに決めたのでなければ、このドラマに救いはないからだ。

*

そして第3巻で導入されるものがふたつある。ひとつは律夏の過去(と予定されていた未来)。もうひとつは藤井が律夏を引き受け自分の決心に責任を取る契機。またこういう言い方もできる、ひとつは藤井が律夏の話を聞くこと、もうひとつは藤井が大塚さんに自分の話を語ること。

大塚さんの登場は唐突だし、登場以上にやること(ヤること)が唐突なので、彼女の登場に違和感を覚える人もいるだろうなあとは思うのだ。だがこういう形で律夏の運命に自分としての責任を感じる人物が現れ、彼女に対して律夏の運命の何たるかを語ってみせるというきっかけがあって、はじめて藤井は救われるのである。

そう、「藤井は救われなければならない」という大前提のものに、第3巻は始まって終わる。律夏が自分の過去と未来に関する「お伽噺」を語ったとき、藤井はその「お伽噺」を「書き換え」させるのである。その時のことを、藤井は大塚さんにこう語る。

無明の道の如き現実を受け入れ 彼女を支える事が俺に出来るか 不安で 苛立ち、焦り、 その一方で

…やっと 彼女の抱えた荷物を 俺も一緒に持つ事が出来ると…

(第12章 If Then)

「いやいや、こんな大事な決心を10年以上自分で忘れていたはずがないだろう」と思う。その上で、「俺も一緒に持つ事が出来る」と藤井の思った「荷物」を、律夏は実際には藤井に預けなかったのである(「藤井の知らない男の無理心中に巻き込まれた」というのはそういうことだろう)。だから、だから「由野」はあんなに律夏を憎み、蔑み、貶めてきたし、「藤井」は結局律夏を理解することができなかった無力さに打ちひしがれてきたのだ。そうじゃないのか?

だが一方で思うのだ、「そんな10年以上の葛藤をひとことで片づけてしまおう、『この子のためなら』、と思えるぐらい、藤井にとって大塚さんは特別な存在だったのかもしれない」と。

「あいつはひどく要領が悪いけど」 …「けど」の後はすぐには思い付きはしなかった

(第8章 Critical Error)

律夏について「けど」の後は「これから考えればいいと思っていた」のに、大塚さんとは出会って2度目にヤッちゃうのだ、藤井は。だがそれを「ああ、シギサワカヤのお話に出てくる女はいつでも簡単にヤッちゃうよなあ」とかで片づけるべきではない。これはもちろん特別なこと、律夏について「けど」の後を続けられないでいる藤井が生きて抱えているすべてを一瞬にして飲み込んでしまえるくらい(飲み込むことを彼女に許すぐらい)、藤井にとって大塚さんが特別な女だったということなのだ。一方、その飲み込んだもの(モノ)の責任は、藤井ではなくて大塚さんが自分で背負ってきたのである。だから大塚さんは、律夏の運命についても自分の責任なんじゃないかと思い続けてきたのである。

「いや、もしそうだとしたら、藤井は律夏のことを、実際には大塚さんの何分の一にも思ってなかったの?! そうだとしたら、律夏のことを『彼女の抱えた荷物を俺も一緒に持つ事が出来る』なんて言ってみせる藤井は、実際には律夏に対して誠実さのひとかけらもないっていうことなの!?」というツッコミもありそうである。そしてそれは、そうなのだろう。「藤井」と「由野」の「ヴァーチャル・レッド」の中で「藤井」があれだけ律夏を見失って彷徨い続けるのは、結局のところ「藤井」が、つまり藤井由野が、律夏のことを愛し切れなかったからである。愛し切れなかったのに引き受けてしまった、その迂闊さの耐え難さゆえに、「由野」は「藤井」を律夏に対する呪詛へと引きずり込もうとし続けるのである。

そんな藤井にどんな「救い」があるというのか、どんな「救い」があっていいというのか、と思うだろうか。

だが逆に考えてみよう。藤井が命ある限り律夏のことを心の奥底で憎み呪い蔑み貶め続けることが、誰の、何のためになるというのか。呪われているのが藤井自身であるなら、それは「罰」なのだろう。だが「ヴァーチャル・レッド」のドラマは「律夏を呪う『由野』の憎悪・嫌悪・侮蔑・呪詛に『藤井』が食いつぶされていく」というものなのである。それは、間違いだろう。律夏にとって間違いであるように、藤井にとっても間違いだろう。

そこに、この物語の「救い」、解放、出口、何と呼んでもいいが、が見出されるのである。そしてそれをもたらすのが、藤井が律夏のことを語ってみせることのできる、大塚さんという相手なのである。

…だからさ、アレは本当に「不運な事故」で 且つ 「起こるべくして起こった事件」だったんだ

(第12章 If Then)

「そんな言い方ってない」と思うだろうか。でもこういう言い方で律夏のことを「昔話」にしてしまうのと、律夏のことを記憶の中で愛し直そうとしつつそうすればするほど律夏のことを憎み呪い蔑み貶め続けることと、どちらがマシなのか。

藤井は前者を取ったのだ、相手が大塚さんだったから。そして言うのだ、

……行っといで もう 大丈夫だから

「誰が」大丈夫なんだろう? 「君が」大丈夫なのか、「俺が」大丈夫なのか、と思うのはぼくだけだろうか。それは結局、律夏の運命について自分の責任じゃないかと思い続けてきた大塚さんが心配していたのは「誰」のことだと思うか、「私」のことだと思うか、それとも「藤井さん」のことだと思うか、ということである。そしてぼくは、第8章に描かれた一夜の出来事を読む限り、後者だと思うのである(ドライなように見えて実はすっごく情の濃い女というのが、シギサワカヤの作品にはときどき登場する。『箱舟の行方』所収「ワールズエンド・サテライト#2」に出てくる女の子とか)。

*

こうして藤井は救われた、自分の話を大塚さんに聞いてもらうことによって。では律夏は?

「律夏が藤井に『お伽噺』を聞いてもらった」ということが、律夏にとっての救いになったのだ、という話になる。

彼女が一瞬 息を呑んだのがわかった ややあってから彼女は 確かにこう言ったんだ

「…大丈夫 です 私には 今 話す人が 居るんです!」

「彼女」はあの時 ……笑ってたんだ 嬉しそうに 「話す人」が居るという事を…

(第13章 End If)

「彼女はすべてを話したわけじゃない」と言ってみせることに、もはや意味はない。自分自身のたぎらせてきた呪詛から解き放たれた藤井の心の中で律夏が笑う。「全ては仮想かもしれない」。だがいま藤井は、自分の心の中で笑う律夏の、実在を信じようとする。

決して見えない 触れない 残せない そんな大事な 何かはあるのだ

*

自分一人だけの力で描き続ける自信が無くなり

(第1巻 あとがき)

このレビューを書くにあたって、このことばの前にしばらく思いをめぐらす。

最初に書いたように、分かってみるとこの作品は、同人誌版のラストまでですでに、女を失った男の怨念・執念についてはあますところなく描き切っている。ぼく自身は最終巻を読むまでそのことにきちんと気がつかなかった。だが、それはぼくの読解力が足りなかったせいなのかもしれない。

律夏が「リアル」の世界でどういう運命を生き、そこに関わった藤井の「ヴァーチャル」で何が起こったか、について、この作品は最初から完全に構成されていたのだろうとぼくは思う。ではなぜ、最初から完全に構成されていたはずの作品を、シギサワカヤは「描き続ける自信が無くな」ったのだろうか?

思うのは、シギサワカヤは、この作品に描いてしまった女に対する男の呪詛、嫌悪・憎悪・侮蔑、怨念・執念というものに、少なからず苦しめられたのではなかったろうか、ということである。

ひとことで言ってしまえば、この作品は「男が女をその弱さゆえに憎む」という話である。「救いのない」話だ。シギサワカヤにとって「描いていて楽しくない話」だったろう。いや、「楽しくない」という次元では済まなかったかもしれない。

それでぼくは、「この作品の最終巻では救いが描かれるだろう」と思った。「救いが描かれなければならない」と思った。誰のために? おそらく、この作品を描き始めてしまった、シギサワカヤ自身のためにだ。

ぼくは、そう思う。「そう願う」と言ってもいい。読者としては、おそらく男でも女でも、女を失った男の怨念・執念・憎悪・呪詛というものがあますところなく描き切れてさえいれば「これはそういう作品なのだ」ということでいいのだと思う。だが作者が、女性である作者がそれをそのまま放置することに耐え難い思いを抱いたと言われたら、それは察するに余りある。

だからこの作品が「救いを描いたせいで作品としての価値や完全さをそこなった」ということはあってはならないと思った。「そう願った」と言ってもいい。

このレビューは、そういう願いのもとに書いた。ぼくはもともと「ある作品が現にそういう姿であることそれ自体に異議をさしはさむ」ようなレビューは書かない主義(どうしても異議のある作品についてはレビュー自体書かない)なのだが、今回は特に「この作品に描かれた救いの姿を受け入れる」ことを強く意識した。「そうしたいと願った」と言ってもいい。

思うのだ、シギサワカヤに対して。描き続けて欲しい、という以上に、「もう苦しまないで下さい」と。

そう願っている。そしてこれは、そんなレビューである。

(2013年10月)

おまけもひとつおまけ

ヴァーチャル・レッド 2

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分からん。これではレビューが書けん。

そう思って、発売日に買って読んだ『ヴァーチャル・レッド』の第2巻をそのまま本棚に突っ込んで、まる4ヶ月が経ったのだが、ふと今日になって、「そうか、『分からん、これではレビューが書けん』と書くこともレビューのうちなんだ」と思いつく。「第3巻が出てから改めて読み返してまとめてレビューを書けばいい」、そういうもんじゃないんだと。

*

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この巻を読んで分かること。女の名前は「律夏(りつか)」というのだということ。律夏はかつて藤井の妻だったことがあるということ。そして、律夏は実はすでに死んでこの世にいない人だということ。

ここで、読者は基本的な疑問に直面する。じゃあ、ここまで読んだお話に登場してきた律夏は、いったい何なんだ?

藤井の幻に過ぎないのか?いや、その赤い家に行けば彼女に会えると言ったのは由野で、そこで藤井が律夏に会うと由野自身もはっきり分かっていたじゃないか……などと思いながら読み進めると、読者は、というか少なくともぼくは、もうひとつの疑問に突き当たる。由野って、誰なんだ?

第7章に藤井の家の「大ばぁば」の葬式のシーンがあって、そこで藤井の家は兄弟が2人いて、上が由野、下が航野という名前だ(変わった名前だ)ということが分かる。では、第1巻から出てきた藤井はこの兄弟のどっちなんだ?ということだが、葬式のあとメールチェックのために会社に戻ってきた兄貴の藤井は部下から「部長」と呼ばれている。第1巻に登場する藤井は「主任」だったはず(っていうか、この巻に出てくる社内表彰のシーンでも「主任」と呼ばれている)なので、兄貴の由野は第1巻から登場する藤井とは別人の気もするのだが、第7章の葬式のシーンからすると弟の航野は明らかに脇役で第1巻の主人公には見えない。

もしかしたら、この物語の本当の現在時は「藤井由野」が部長である時点のことで、主任である「藤井」が派遣の「由野」にそそのかされて律夏と逢うのは過去の記憶それ自体か、過去の記憶をベースにしたひとつの幻想、「夢」、なのかもしれない。そうだとすればこの物語は、過去と現在、現実と幻想がないまぜになった、とても複雑なドラマだということになる。そして登場人物も、本来はひとりの人間であるところの「藤井由野」が「藤井」と「由野」に分裂して登場しているということになる。

*

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そういうこと自体のたねあかしだけであれば、第3巻を読めばおそらく解決するだろう。

それはそれとして、この作品は何を描こうとしているのだろうか。この巻の終わりの、8ページにわたるモノローグをひとつに書き出してみる。

…問題は ないのだ ”死んだ者は 空へゆく” 質量保存の法則に拠れば 何も失われはしない現象 大地の一部に 大気の一部に成るだけの だから思想として 強(あなが)ち 間違ってはいない

――――…なのに

穏やかに消散していく彼女の記憶を 留め置いて崩し続ける内に 何も感じなくなった 温度も 時間の感覚も 全てあの女に あの夏の記憶に持っていかれた 自分が 彼女をどう思っていたかも もう よくわからない 

思い出せる事はもう とても少なくて、 「俺を裏切り 挙句死んだ女」 2年間だけ 「俺の妻」だった女

確かに 触れていた 毎日のように 当たり前の様に、 …異常なほどに、

何が、と問う暇さえ与えられず消え失せた

――――彼女は どんな女だった?

藤井は律夏を失ったことで自分を責め続けている。あるいは、自分を責めずにはいられないほど苦しんでいる。「そうしなければ …生きられない」と彼は思っている。そして、その中で、何度も何度も戻っていくのは、「――――彼女は どんな女だった?」という問いなのだ。

あの女は嘘吐きで 誰とでも寝る 最低の裏切り者 何をしても構わない …だから。

…違う、違うだろう? …違うんだろ? 俺は 俺だけは 信じてる …ああ、それなのに、 声も 顔も 仕草も

自分が惹かれも求めもしたものを自分は信じることができなかった、あるいは自分にとって信じることのできなかったものをそれでも自分は失うことに耐えられなかった、ということ。そのせいで、藤井は自分を責めている。彼女がどんな女だったのか、信じるに値しない女だったのか、失って悲しむに値しない女だったのか、そんなことにさえ今でも答えることのできない自分を、藤井は責めている。言ってみれば、迂闊だったのだ。だがもう遅い。

皮膚で明確に隔てられた個体に対しての限界。相手に対して、そして自分に対して、透明度のひどく低い視界の中でぼんやりと形を成すもの、が恋愛という現象に思えてしまうのは、多分「ほんとうは」よろしくない事、適切ではない事、なのでしょうね。

(あとがき)

ここにあるのは、人生がそういうものであり得るということに対する、悔恨というより非難である。一度始めてしまったら自分では決してやめることのできない自責というか自分自身に対する拷問の中に藤井を置いて、この物語が第2巻で見せた展開の中で描かれるのは、人生というものに対するひとつの非難なのだと思う。

なぁ 教えてくれ ここに居る 我々の反復運動(ルーティンワーク)は どこまで どこまで続けたら 許されるのか 期限がはっきりしなくて …苛々するんだ

*

で、どうなるんだ、このお話?

(2013年5月)

ヴァーチャル・レッド

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この作品は2004~2007年にかけては同人誌にて発表、また、その続きを現在『楽園』Web増刊において連載中の作品です。

とはいえ、実はこの1巻には同人誌分のまだ半分強しか収録できていないのですが…

(あとがき)

『箱舟の行方』が2005~2006年にかけての作品(いちばん古いのが「つまりは病のような。」で2005年11月)、『つめたく、あまい。』が2006~2009年にかけての作品、ついでに言えば『溺れるようにできている。』が2007~2008年にかけての作品、『ファムファタル』が2007~2010年にかけての作品である。に対して、『ヴァーチャル・レッド』の第1章は2004年8月の作品、第2・3章が2005年8月の作品。つまりこの本に収録された作品は、これまで商業ベースで発表されたシギサワカヤのどの作品よりも古い作品だということになる(……あ、『九月病』『誰にも言えない』が手元になくて確認できない)。

それを指してこういう言い方をすると作家さんにとっては心外だとは思うのだが、読んで、

「迷いがなかった頃のシギサワカヤがいる。」

直感的に言えば、そう思う。

*

あらすじ。とあるソフト会社の開発部門に代休が128日たまっている藤井という独身の主任がいた。ある徹夜明けの朝、品質調査室にアルバイト入社した由野(ヨシノ)という男から「通勤経路を少し入ったところに戸締りが一切されていない赤い屋根の古い木造家屋があってタダで幾らでもヤらせてくれる女がひとりで住んでいる」と聞かされ、別にヤりたかったわけでもなかったのだが帰り際ふと好奇心から立ち寄ってみたところ……。

彼は結局、128日ある代休を全部突っ込んで彼女のところに居つく破目に陥ってしまうのである。

*

とりあえずこの第1巻を読む限り、物語は始まりはしたものの、そこからどこへ行こうとしているのかはまったく分からない。登場人物は3人で、ひとりが何かを握っているっぽいが、それが何なのかは明らかではない。あとのふたりは何をしているのかというとナニをしているばかりである。風呂に入ったり素麺を食べたり浴室で花火をしようとしたり(よい子はマネしないでね)する以外は、まあ、そういうことばかりしている。

最初読み始めると、この物語は、あのハイフンと由佳里さんの物語『ファムファタル』とは別の設定で、男にとってある女が「運命の女(ファムファタル)」になっていくプロセスを描こうとしているのか、と思う。だが半分も読まないうちに、そうじゃない、と気づく。

この作品に出てくる女には個性(キャラクター)がない。藤井くんも「仕事以外ダメ人間」であまり個性的なキャラクターではないのだが、女の方はもっと根本的な意味でキャラクターがない。なぜひとりで住んでいるのかも、どうして誰とでも関係を持つのかも、そしてどうして藤井に向かって「あなただけ」と言うのかも、分からないし、物語の進展の中で明らかになっていくような気配もない。

それを「ミステリアス」と呼べばそうなのかもしれない。だが藤井くんが彼女に惹かれる理由は彼女が「ミステリアス」だからではない。彼女は、読者にとってそうであるように、藤井くんにとってもさっぱりわけの分からない女なのだが、彼が彼女に惹かれる理由は、名状しがたいのかもしれないが、実はいたって単純明快なのである。

――離したくない と 思った

由野に導かれて藤井くんと一緒に読者が出会うのは、男が惹かれる「女」という存在の、ほとんどアーキタイプ(元型)とでも言うべき存在である。そしてこれ以降、この作品は、時間軸の中で物語が進行するという形を取りながら、このアーキタイプとしての女の姿をためつすがめつ眺めることになる。

ぼくには、この作品は、そうとしか見えない。ぼくは以前別稿で、シギサワカヤの作品の登場人物とストーリーの関係について概観したことがあったが、そのとき示した「突っ走る/引きずられる」「悩む/何も考えない」といったパターンに、この作品はまったくあてはまらない。この作品は物語の流れが緩慢である。途中で由野が思わせぶりなセリフを吐いたりするので、「ああこの作品は、もともと長編として構想されていて、話がじっくりゆっくり進んでいくんだろうなあ」と思うこともできる。だが、この女の造形が進んでいくにつれ、「この作品はもともとストーリーテリングを目指していないんじゃないか」という気がしてくる。女の姿が、あまりにも普遍的過ぎる。そして、女の姿があまりに普遍的過ぎるため、藤井くんのなけなしの個性さえ遠くにかすんでしまう。この作品は、「女」とは何かを描き出すために構想された幻想(ファンタジー)である、と理解するのがふさわしく思える。さっき不用意に「アーキタイプ」などという言葉を使ったが、考えれば考えるほど、この作品が描いているものの表現として、ほかに何て言ったらいいだろう、と思う。

*

読者が作品を読んでそこに見出すものと、作家が自分で作品に込めたもの、目指したことは同じではない。だから第1巻だけ読んで「赤い屋根の一軒家、それはアーキタイプとしての『女』を描き出すために構想されたファンタジーですね」といって読者が納得するからといって、それが作家自身の本意かどうかは分からない。この作品は、ある種の見た目どおり、由野が藤井に対して罠を張った、あるいは藤井をおとりにして女に対して罠を張った、サスペンスの類なのかもしれないし、最初はそういうふうに構成されながら、女の造形が進展していくにつれて作品の様相が変わってきたのかもしれない。

ただぼくは、シギサワカヤという人を、男と女の深い部分を何のエクスキューズもなしにいきなりわしづかみにしてしまえる人だと思ってきて、最近作を読んであまりそういう感じがなくて残念に思っていたところにこの作品を読んで、「やっぱりシギサワカヤはこうでないとなあ」と思うのである。この「何のエクスキューズもなしに」というところが大事である。「『箱舟の行方』を読んで脳裏に疑問符の飛び交うような人は『未必の恋』を読んでも疑問符を払拭できる以上に何かを感じることはないだろう」とぼくは思う。そして、もしこの『ヴァーチャル・レッド』の第1巻を読んで脳裏に疑問符の飛び交うような人(いると思う)の疑問符をはたき落とすためにこの作品の続きがいま描かれているとしたら、それは不幸なことだとぼくは思う。ぼくはこの第1巻を読んで、「ああそうか、すべての女は化け物なんだ」と、今さらのようにつくづくと感じる。そして、とりあえずこの作品をそういうふうに読むことに安住できず、たとえばサスペンスとしての進展を期待したりする人がいるなら、それを少し残念なことだと思う。シギサワカヤにそういうことができるとしたら、それはそれで歓迎すべきことなのだろうけれど、ぼく自身はそういう見たことも聞いたこともないシギサワカヤが好きなわけではない。それこそ思うのだ、『箱舟の行方』のあとがきのエピソード、コミティアに来た白泉社の担当さんが手に取って「やーこの本いいですよ」と言ったのがこの作品だったのであれば(『九月病』だったのかもしれないが)、この作品にいますでに現れている面白さこそシギサワカヤの面白さなのだ、ということでいいのではないか、と。

*

この作品はシギサワカヤのどの作品と比べても性描写てんこもりなのだが、この作品を読むとシギサワカヤにとっての性描写が何なのかがよく分かる。この作品が描こうとしているものはひとことで言えば「女」なのだが、女を女として描くために、性描写が必要なのである。もうエロマンガですかというくらい性描写を描きながら、ここには「性」や「愛」が描かれているわけではない。実存としての「女」を描く、ただそれだけのために、性描写がある。性描写らしい性描写のあるほかの作品を思い浮かべてみても、これは変わらない。「空の記憶」「つめたく、あまい。」「あなたさえいなければ。」シギサワカヤが描いてきたものはほとんどの場合、始まったり終わったりする「恋」や「愛」ではなく、別の意味で始めがあって終わりがある「性」(セックス)でもなく、その「恋」やら「愛」やら「性」やらを生きる「女」だったろう。

『未必の恋』は少し違う。『未必の恋』はシギサワカヤが恋やら愛やらをはじめて「始めと終わりのあるもの」として描いた作品だが、そのせいであの作品は、シギサワカヤの作品について散見する「レディコミみたい」という指摘がなんとなく当たってしまう作品になっている。咲ちゃんという「女」のすさまじさが炸裂したのは、あくまでもあのエレベータの中の15分間だけだった、というところが、「箱舟の行方」のファンタジーであると同時にリアリティだった。あの場所に咲ちゃんを閉じ込め追いつめたことに比べれば、成り行きで持った関係とその終わり自体にさほどの面白みがあったわけでもなかったのである。

ぼくはシギサワカヤの作品が「レディコミみたい」と言われるのは不本意なのである。そういうところを面白いと思って読んでいるわけでは、ぼくはないからである。だから、『ヴァーチャル・レッド』が明らかに「レディコミみたい」ではない(とぼくは思う)ことにぼくは満足しているのだが、描き進められるうちにこの作品も「レディコミみたい」になってしまったら残念だなあ、と思う。

*

ファンというのは作家なら作家の「いま」を応援してなんぼだと思うので、作家の「いま」にダメ出しするみたいなこういうレビューを公表することには正直言って抵抗もあるのだが、たとえむかしの作品でも「買って読みましたよ、面白かったですよ」という嘘偽りのないメッセージを発信するのはファンの最低限の義務だと思い、真意はあくまでそういうメッセージとして、書いてみるのである。

(2012年9月)

※2012.11.28追記 白泉社から第2巻の予告が出ているのでコメントしてみました

未必の恋

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「かわいそうなお話である」、これに尽きると思う。

シギサワカヤ自身にとっては描きたかったテーマなんだろうと思うし、だから作品としての完成度がほかのどの物語に比べても一頭抜けている気はするのだが、描けば描くほど結局これは「かわいそうなお話」であるとしか言いようがない。

私は酔ったふりをして、 …あなたは、遊びのふりをして、(「氷点」)

そして、ここまで描いても、分からない人には、やっぱり分からない話なんだろう。

…俺は、 …お前が大事だよ (「おわりのことば」)

信じられない人には、やっぱり信じられないことばなんだろう。

*

シギサワカヤ自身がこの物語をこういうふうに最初から最後まで描き切ろうとしたのは、別に分からない人に分からせようと、信じられない人に信じさせようとしたわけじゃなかったのだと思う。「サブリミナル」を(『楽園』を買って)読んで思ったのは、「『箱舟の行方』では説明が足りなさ過ぎる、と思う人って世の中にいるかも、と思ったからかなあ」ということだった。これは本当に、「箱舟の行方」で十分分かっている人間には屋上屋のようなお話である。でも、「おわりのことば」という作品が(ああいう密度の作品として)あって、そこに至る過程として「カテゴライズ」があり「氷点」があるのだとしたら、ああ、それだったらたしかに「サブリミナル」という作品も、これはこれとして必要だわ、と思うのだ。

つまり、描きたかった、あるいは描かれる必要があったのは、「おわりのことば」なのである。

不倫している、というストレスだけで痩せてしまう、まじめな咲ちゃん。

ぼくの中には、実際に不倫するほどの人でそんなにまじめなタイプの女性は思い浮かばない。不倫する女性というのは心のどこかに絶望を隠し持っているものだが(隠し持ったまま顕在化させられないから不倫してしまうのだが)、だからといってそれで痩せてしまうというほどの人は不倫なんかしないと思う(ま、それこそ「年上の男に遊ばれた」話なら分からないが、この物語はそもそもそういうのとは少し違う。「少し違う」だけかもしれないが)。咲ちゃんはかわいそうなことに「新婚で不倫」である。笹原と終わってから田村さんと結婚できればよかったのだが、成り行き上そうならなかったのだ。咲ちゃんはつけるはずのないウソを田村さんについて、それでも笹原と逢いたかったわけだが、笹原の方が見るに見かねて別れを切り出すことにした。すごい誠意である。実際の不倫にこんなおとぎ話のような誠意はないだろう(ここが、この物語の「年上の男に遊ばれた」話とは違うところだ)。だがこれはこういう話である。そうでなかったら、そもそも「会社のエレベータで先輩にチューされて拒まない」というスタートラインそのものが成立しない。ぼくが『未必の恋』という作品集全体を、言い訳だ、屋上屋だ、と言う理由はそこにある。「箱舟の行方」が受け入れられた人間にとっては、すべてが「言わずもがな」なのだが、それでも『未必の恋』にまとめ上げてはじめて「なるほど」と思う人がいるなら、まあそれはそれでいいのだろう。

言葉だけでは どうしようもなく これ を 全ての人にわかるよう 表現することが叶わない 

叶う筈もないと知っているから

…あなたさえ わかってくれればそれで …いい

(「おわりのことば」)

「おわりのことば」は、本当だったらこの世に燦然と輝いていたかもしれないひとつの恋の終わりを弔うお話である(世間の人はここで「レクイエム」と言うのかもしれないがぼくはこのことばを使いたくない。クリスチャンなので)。それが、シギサワカヤのやりたかったことなのだろうと、ぼくは思う。「本当だったらこの世に燦然と輝いていたかもしれないひとつの恋」だったのだ、これは。

こんな感情は だってそんなの するつもりじゃなかった (「サブリミナル」)

……何て言ったらいい?「かわいそうだよねえ。」ぼくはほかに言葉がない。

…笹原さん

ごめんなさい …笹原さん

好きになって ごめんなさい

(「カテゴライズ」)

……何て言ったらいい?「かわいそうだよねえ。」ぼくはほかに言葉がない。

(2012年02月)

さよならさよなら、また あした

Temperature_in_the_dark

「真面目で無力な人たちの哲学的スラップスティック」である。

「シギサワカヤのマンガっていつもそうじゃないか」と言う人がいるかもしれないが、考えてみると、そうでもないのである。

*

どこから始めようか。『箱舟の行方』所収の「空の記憶」。

――明日のことすら分からない 愚かで不安定なわたしたち、

けれど 不思議ともう 怖いとは思わなかった。

「怖いとは思わなかった」。かつて別のレビューでも引いた箇所なのだけれど、今回このレビューを書こうとして読み返した作品の中で、改めていちばん印象的だった独白だ。「怖いとは思わなかった」んだ、と。で、それに対して『さ(以下略)』(と書くそうだ)。

…目先の小さな「よかった」で 私は十分泣きそうに幸せだ

ここにあるのは、幸せの告白ではなくて、無力感の告白なんじゃないだろうか?

この物語の4人の登場人物が目と鼻の先に直面しているのは、自分たちを圧し潰すためだけに存在している未来なのである。その未来を思って、育も万喜も震えて泣くのである。そして、正嗣も武田君も、彼女たちのそばにただ寄り添うことしかできないのである。

シギサワカヤって、こんなマンガ描く人やったんや?いや、「こんなマンガも描ける」ということなのだろうが。

あるいは、平成23年の日本というのは、シギサワカヤにこんなマンガを描かせる年だったんだ、ということかもしれないが。

*

シギサワカヤのマンガに出てくるカップルはだいたい次の2種類のペアの組み合わせである。

  • 突っ走る役と戸惑いながら引きずられて行く役
  • あれこれぐちゃぐちゃ悩む役と何も考えない役

「何も考えずに突っ走る男とあれこれぐちゃぐちゃ悩みながら引きずられて行く女」という組み合わせがいちばんシンプルなのだろうと思う。そういう風に考えると、たいていの作品がどれかにすっぱり分類できるわけではないことにも気づくが、あえてこのタイプに分類できそうな作品はどれもハッピーエンドで終わっているよな、と思う。『ファムファタル』の1巻に収められている「滅びてやる」、それから上掲「空の記憶」。次に「自分の中にあれこれぐちゃぐちゃ抱えながら突っ走る女と達観でもないが割り切って引きずられて行く男」の組み合わせ。『つめたく、あまい。』所収の「往生際で逢いましょう」と「あなたさえいなければ。」の2作だが、これもハッピーエンドである。

何が言いたいかというと、両方が突っ走ったり両方が悩んだりすると作品の様相が不安定になる、ということだ。両方が突っ走った例は『箱舟の行方』表題作「箱舟の行方」。倉田さんがどう考えても本質的に悩んでない、というところがこのお話のいちばん面白いところなのである。発売以来何年もこの作品を読み返してきて、いま思うのだが、この作品の魅力をひとことで言え、と言われたら、「倉田さんって、どうしようもない女やな。」というのはどうだろうかと。シギサワカヤは最近この作品の周辺で同じ登場人物を使っていくつか描いているけれど、それらが倉田さんの「どうしようもなさ」に対する逆に言い訳みたいなお話になっている気がして、ぼくとしては残念な気がする(笹原さんの言い訳はいいのだ、男は言い訳した時点でダメ認定なのだから。言い訳すればするほどダメ男だというだけのことだから)。

両方悩んだ例というと、やっぱり『ファムファタル』だろう。由佳里さんとハイフンは「両方悩んで両方突っ走る」という役であり、だから作品の様相が不安定になって、2巻で終わるはずが3巻本になったのである。これに比べれば、『溺れるようにできている。』も両方悩む物語だとは思うけれど、佳織ちゃんがもうどうしようもなく哲学者チックに悩むタイプだったのに比べれば、圭がまだ普通の男だったせいで(食べてばっかりだったり変態だったりするのかもしれないけれど)、お話がちゃんとハッピーエンドになるのである。

で、『さ(以下略)』は、4人もいるのに、うち3人が悩んで残り1人も3人はおろか自分の彼女すら引っ張り切れない。

互いに思うところがあって、互いにどちらにも走り出さない、というと、『つめたく、あまい。』所収の「嵐が丘」ってそういう話である。すごおくリアルなお話なので、逆にさらっと読んでしまうのだが、『さ(以下略)』を読んで、4人も雁首そろえておきながら未来を怖れながら待つ物語にしかならないのを見ると、「走り出せない」ことがリアルに見える時代なのかなぁと、「嵐が丘」のあのジリジリするようなラストを思い返すのである。

*

ぼくは『溺れるようにできている。』を指してよく「哲学的」だと言うのだが、別にこのお話が哲学をしていると思っているわけではない。この作品のひとつのクライマックスは単行本のpp.148-149の見開きだと思うのだけれど、その前後含めて4ページにわたる独白を読んで、「恋する女の子の心を告白したポエムなのだろうけれど、なんというか、分析的で、散文的で、『哲学的』だなあ」と思うのである。ここまで自分の心を分析的に記述する態度は、ほかの作品にはないから、あくまで真面目で不器用で引っ込み思案な佳織ちゃんのキャラ造形としてやっていることなのだろうと思うけれど、これがなければこのお話はいたって他愛のないラブコメなので、いたって他愛のないラブコメを「シギサワカヤ風に」しようとしたらこういう「哲学的」な感じになるのかなと思ったりもするのである。

『さ(以下略)』はそうではない。真面目で無力な人たちが、ほんとうに哲学をしているのだ。

…何から 話せばいいのか わからない / 何を言うのが正しいか そんな ことは わからない

何もできないままは嫌 だけど「したいこと」が「していいこと」じゃないとも 解ってる

自分にとって大事なものを失う運命が待っているのだ、という事実の前に、みんなもうあれやこれや考えるのだけれど、結局のところ「で、自分はどうしたらいいのか」、誰もがぴったり答を出すことができずにいる。

で、挙句の果てに。

予想内の未来も 予想外の未来も …怖いけど 一緒に楽しみましょうよ

ここで「怖いけど」と言っているのが武田君なのである。この物語の中で、万喜を「何も考えず引っ張っていく役」であるはずの武田君が、ほかの3人が口に出さない「怖いけど」ということばを口にしているのである。思うのだ、ほかの3人は、「怖い」という言葉を口にする余裕すら、心の中にないのではないだろうか、と。

この、いくら考えても、自分は本当に大事なものとどう向き合っていったらいいのか分からないまま、とにかくあがき続けるしかなくって、そう考えると選択の余地が残されているのはただ「あがき方のスタイル」みたいなものだけなんじゃないか、という結論は(単行本で199ページから最後のページまでに描かれていることってそういうことなんじゃないかとぼくは思うのだが)、いまの日本では相応にリアルなものだと思うし、だから同じようなことをテーマにしているドラマはこのマンガだけでなく小説やテレビドラマや映画にもたくさんあるような気がする。

だから、それはいいのだけれど……。

*

正直に言ってしまうと、クリスチャンをやっているぼくは、さすがにこういうテーマに関する個人的な結論は持っている。自分はなぜ生きてなぜ死ぬのか、という自分の、そう自分の、聖書に書いてある何かとかそういうのじゃなくて自分自身の、人生を貫く一本の糸みたいなものを、クリスチャンとして生きると、見つめるようになるんじゃないかとぼくは思う。ぼく自身はそうだ。運命なんて、絶対にない。あったとしても、変えたければ、神さまにお願いすればいいだけだ。神さまはそれを、必ず変えてくれる。しかし、そう達観したところから、「いや、オレはまずこういうふう以外には生きないだろう」という、自分の姿が見えてくる。これを、どうしたいか、と神さまに聞かれるのだが、変えません、と答えると、それが自分の人生になるのである。自分の人生は100%自分でデザインできるんだ、ということを知るのはものすごい苦しみで(意外かもしれないが、自分の人生を誰のせいにも何のせいにもできないと知るのはそれを知らない人にとっては想像を絶することだ)、その上で自分が自分の人生を変えようとしないということを知ることも、相当の覚悟が要る。

じゃあ、そういうところから『さ(以下略)』を読んだらバカみたいに見えるかというと、それはそういうわけでもない。哲学は明らかに違うから、「あー、ふつうはこんな感じかなー」みたいな「他人事目線」になるのはどうしようもないが、よほど霊的に特別な人でない限り、たとえ信仰を持っていても、人は自分の人生に戻ってきてしまうのである。だから、生き様は、同じなのだ。

そして、そうであればこそ、思ってしまうことがある。「シギサワカヤって、もう『突っ走ってしまう人々』を描くことって、ないのかなぁ?」

生き様だけで言えば、突っ走ってしまう方が、面白いじゃないか。

『さ(以下略)』がダメだって言ってるわけじゃないけど。万喜ちゃん可愛いけど。

でもオレは、やっぱり、「怖いとは思わなかった」と書けるシギサワカヤが、好きなのかもしれない。

シギサワカヤのことを、「怖いとは思わなかった」と書ける人だと、思っているのかもしれない。

*

だから。

「ファム太郎」みたいなのが待っているんだと期待して、カバー取って、あんなことばが書いてあったら、あわてるじゃない?

あのことばは、あのカバー下にある絵のタイトルってことで、いいんだよね?

それ以外の意味だったら、ダメだよ。

(2011年12月)

つめたく、あまい。

シギサワカヤを指して「いま日本でいちばん面白いマンガを描く作家」と言ってしまうことにぼくは個人的に何の躊躇もない。だがシギサワカヤの何がそんなに面白いのかということを言葉で表現するのは簡単なことではない。

ずっとそう思ってきたのだが、『つめたく、あまい。』の「あとがき」でご本人が非常にいい表現を使ってらっしゃる。

ええととにかく人間の、言葉だけでも見えるものだけでも説明しがたい膨大な部分が、あれやこれやと面倒なことになっている様がどうしても好きなので、そんなところを少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。

なるほどー、と思う。パソコンのアプリケーションとかで「バックグラウンドで実行する」などという表現が出てきたりするが、たしかにシギサワカヤのお話というのはいつもそういう、バックグラウンドで何かが走っているからこういうことが起こってしまうという物語なのかもしれない。最たる例は「箱舟の行方」だろう。倉田さんと笹原さんの間にあるものが何なのか、この物語は一切説明しないので、これを読んで訳が分からないと思う読者ってきっといっぱいいると思うのだが、幸か不幸かぼくは分かる。

今さらのようだが、「箱舟の行方」というお話のあらすじを書いてみよう。「システム室の笹原さんはエレベータで新人の倉田さんに会うとチューするという習慣がありました。倉田さんは訳が分からないままでもなんか拒めずにいましたが、ある飲み会の夜ふとそんな気になって笹原さんとヤッちゃいました。倉田さんは新人研修の時に田村主任と出会ってつき合い始め寿退社することになりましたが、結局自分の中で笹原さんって何だったのか整理がつかず、最後の最後に会社のエレベータにカンヅメになったどさくさにまぎれて笹原さんとあれやこれやヤッちゃうのでした……。」

「エロマンガかこれは」というようなあらすじだが実際こういう話なのである。倉田さんの「バックグラウンド」で何が走っていたのかこの物語は一切説明しないが、たとえば彼女は笹原さんにチューして欲しくて口紅をつけない、田村主任から口紅を買ってやろうかと言われても断ってしまう、という女だったのである。これを「分かる」と思うか「ふうん」と思うか「バカか」と思うかは人それぞれだろうが、少なくとも「世の中にはこういうことがある」ということが分かるのはある程度大人になってからではないだろうか(こういうことが分かる高校生の女の子とか世の中にはいるのかもしれないがぼくはそういう人とは関わり合いたくない)。

もひとつ、『ファムファタル』の海老沢由佳里さん。

わ…私は 石渡さんとは 付き合わない

ハイくん…とは …大事だけど 離れたくないけど 付き合いたくない…

―― 友だちでいたいの…

ぼくはハイフンの立場に立ったことが人生で何度かあり、いろんな目を見て今年43歳になるが、今なら由佳里さんの言葉を素直にそのまま受け止められる。こんな女っているし、こんな女をそれでも愛することに意味を見出すかどうかは結局男である自分の問題なのであって、見限るなら見限ればいいことだが、かわいいと思うのなら素直にそばにいてやればいいのだ、彼女は喜ぶだろう。ハイフンにそれができないから(……いや、できないものなんですねこれが)、この『ファムファタル』という物語があるのである。ぼくは由佳里さんみたいな女性とどう付き合うかが人生のテーマだったみたいなところもあり、彼女の言動を意味不明だと思う人がいるのかどうかさえ今となっては分からないが、これだってやっぱり「分かる」と思う人と「へえ」と思う人と「バカか」と思う人がいるのだろう。

「箱舟の行方」と『ファムファタル』、この2つは、「バックグラウンド」で走っているものが何なのかということ自体が分かりにくい、というか必ずしも誰にでも分かるものではないという物語だと思うが、これ以外の作品は、どうだろうか、ぼくは『九月病』を読んで釈然としなかったので手放してしまったのだが、それ以外の作品については、「バックグラウンド」というほど難しいものではなく、ひとは自分の感情にあとから気づいていくものだくらいの作品である。たとえば「つまりは病のような。」や「空の記憶」。「空の記憶」というのは、地味な作品だが、すっごく普遍的な作品だと思うし、ぼくはとても好きである。あるいはそれこそ『溺れるようにできている。』他愛もないラブコメをすっごく哲学的に描いたこの作品は好き嫌い分かれると思うが、でも根本的にはシギサワカヤの作品の中ではもっとも平和で甘美で端正な作品である。ついでに『九月病』に関して言うと、ぼくは近親恋愛というものをある程度リアルに想像できてしまうので、自分の中にあるそれと作品に描かれたものとがある程度以上に違うと拒否反応を起こしてしまうところがあるのだろう、というか、ぼくは兄妹の関係しか分からないので、姉弟の関係については想像ができないのだ(そもそもぼくは現実に存在した以上に近親恋愛に耽溺したいとは思わないので、きづきあきらの "WHITE" があればそれで十分なのだ)。

「自分の感情に気づいていくというのはひとつのドラマなのだ」という捉え方の作品がある。これはスポ根や格闘マンガでもあり得るし、それこそ恋愛マンガでもあり得るのだが、あまりにも当たり前の感情に気づくことにことさら感動してみせるとそれは自己陶酔にしか見えない。「アタシはカレが好きなの!キラキラ」みたいな感じで、ローティーン向けの少女マンガだと珍しくないのかもしれないが、大人がそれではみっともないと残念ながらぼくは思う。で、それとは少し違うのだが、秋☆枝さんの『伊藤さん』を読んでも、この作品の「はわわわ」感はたしかに楽しいのだが、「大人なんだからもう少し自分の感情に慣れてもいいんじゃないか」と思ったりもするのだ。この場合は「自分に気づいていくことに未熟」というのではなく「自分に気づいていくことに対して何かがブレーキをかけている」からこうなってしまうのだろうと思うのだが、なんでかなー、もっと素直になればいいのに、と思う(いや、そう思わせるからこそ「はわわわ」感が演出できるのかもしれないが)。

シギサワカヤの作品は、「箱舟の行方」にせよ『ファム・ファタル』にせよ、自分の感情に気づいていくということがテーマになっているとは言えない。「バックグラウンド」で走っている何かの周りを本人の意識はぐるぐる回っているのだが、そのコアにはたどり着けないまま話は進んでいく(「箱舟の行方」の場合はそのまま話が終わってしまう)。一方で自分の感情に気づいていく「はわわわ」感でできている作品がないわけでもない(『箱舟の行方』の「こい、のようなもの」や『つめたく、あまい。』の「往生際で逢いましょう」など)。でも、こういうことを考えていて改めて確認するのは、シギサワカヤという人はドラマツルギーを追い求めているのではなく、あくまでも個別の物語の意味を考え続けながら作品を描く人なのだろうということだ。

もっと言えば、シギサワカヤには「あれって何だったんだろう」という原体験みたいなものがあって、その周囲をぐるぐる回りながら作品を描いてきたのではないか、ということである。そして『つめたく、あまい。』の「あなたさえいなければ。」という作品は、その原体験のコアにとても近い作品なのではないだろうかという気がするのだ。

この物語は「バックグラウンド」で何かが走っている話であり、でも走っているものはわりと普遍的というか何でもないものであり、それに気づいていくことを阻んできたのは精神の未熟さではなくて別の何か(この物語の場合は彼女の性格が「理系全開」だったということ)である。「3年間で15回別れて15回復縁する」というやや奇矯なドラマを掘り下げる形で物語は進んでいくのだが、どうだろうか、この寺田さんという女の子(名前出てこないんだ、といまさら気づいた)は、理系全開であると同時に女の子全開でもあるようにぼくには見えるのだ。そして、シギサワカヤという人は、そもそもこういう主人公を描きたかったのではないだろうかとぼくは思う。なんとなく。『ファムファタル』の由佳里さんは理系だからああなってしまうわけでは全然ないのだけれど、「あなたさえいなければ。」の寺田さんがこうなってしまうのは彼女が「理系全開」だからである。そして、こういう「理系全開・女の子全開」の主人公こそが、シギサワカヤに作品を描かせる原体験のコアなのではないだろうか。なんとなく。

ちなみに、どうしてぼくはシギサワカヤの作品が好きなのかというと、自分が実際体験している恋愛というか男女関係と、この人の作品世界が非常に近いからだ。「会社のエレベータの中で会社の女の子に『死ぬかと思う位感じました』って言わせたいよねー、男のロマンよねー」とか思うのだが、気づいてみると現実問題としてそういう場所からそんなに遠くないところに自分がいたりする。

私、笹原さんのそういうところ ――好

…言っちゃダメ。

今さら思うのだが、恋愛というのは男も女も「一歩たりとも退かない」という形でしか完成できない。行き着いた先に幸せが待っているという保障はどこにもないが、でも退いてしまえば、というか退くことを考えた時点で、恋愛は終わりなのであり、そして終わってしまった恋愛というのは痛みと哀しみしか残さない。

数十年後も 数日後も 1秒後も 想像できないことに変わりなく 保障されないことも確実で

だから 例えば明日 ――例えば数十年後 そんな未来に この数日のことを思い出したとして

この狭い天井や 扉越しの遠い雨音や 傘の向こう硬く閉ざされたシャッター 老夫婦の作る優しい空間

――そういった全てを 私は どんなふうに

……誰と 思い出すんだろう?

こういうことを本気で考えるから、「嵐が丘」の「…そんなの、本望だよ。」というセリフがあるのだ。

――明日のことすら分からない 愚かで不安定なわたしたち、

けれど

不思議ともう 怖いとは 思わなかった。

(2010年4月)

ファム・ファタル

シギサワカヤの " Femme Fatale " 。「ファム・ファタルとはこういう女(ひと)のことを言うんですよ」という好例を描いた秀作。これ、いつか誰かがどこかで実写化するだろうな。あんまりにもよく出来過ぎているし。

しかし、ふと思うのは、恋仲になってしまったりそれこそ肉体関係になってしまったりすることを妨げる要素が何もないところで、「ああ、この人を好きになってはいけない」と思って、いわば「キョンと長門さん」みたいな関係にたどり着こうと自分で努力して、はたして成功するものなのだろうか。

うーん。「ユニとジョエン」とか書こうとして思い至るのは、信頼関係があるのであればそこにとどまることは難しくはないのではないかということだ。ファム・ファタルというのはそういうのではなく、「どこで彼女を信じればいいのか分からないのに彼女を引き受けたくて仕方がなくなってしまう」という存在である。信じられる相手を「ファム・ファタル」とは呼ばない。そして「何があっても私は私に責任を取ることができる」と決めている男にとって「ファム・ファタル」は存在しない。 "She's going to break your heart in two, it's true." 、それが "Femme Fatale" なのだとニコが歌っているではないか(ちなみにベルベッツのヴォーカルは常にニコなのだと思っていたが違うようなのでこの歌を歌っているのが実は誰なのかぼくはよく知らない)。

滅びを目指しているわけではないのに滅びしか目指せなくなる、それが「ファム・ファタル」なのである。だから、分かってみると海老沢さん可哀想過ぎなのだが、でもこういうことってあるのである。ハイフンが悪いのだろうか。そうとも言えないのである。「それがファム・ファタルなのだ」ということを、こんなにシンプルに描き出すこの作品はすばらしい。「すげー面白い」と思うかどうかは人によるだろうが、秀作という点に関しては『箱舟の行方』より秀作だろう。

(2008年9月)