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私たちの幸せな時間

『私たちの幸せな時間』。韓国の女性作家・孔枝泳の原作を、蓮池薫さん(たぶん北朝鮮から戻られたあの蓮池薫さんなのだろう)が邦訳して、それを佐原ミズさんがマンガにしたものである。

100%キリスト教のお話である。もともとの物語がどういう理由からどの程度キリスト教に立脚しようとしたのかは分からない。「クリスチャンが自覚的にキリスト教の物語を書こうとして書いた」のか、「クリスチャンが人口の1割いてキリスト教的な考え方が文化の中にふつうにある国の人があくまで人間ドラマを書こうとして書いた」のかは分からない。だが、マンガ化にあたって舞台を日本に移してしまったのは間違いじゃなかったかなぁと、クリスチャンであるぼくは思う。

『ほしのこえ』と比べると少しクセのある絵に仕上がっている。最近佐原ミズさんはこういう絵を描くのか、それともこの作品用にこういう絵を用意したのか分からないが、そこが何となく韓国の作家が描いたマンガのように見えて面白い。「ああ、絵が上手だな」と思わせるキメのコマがあんまりないのだが、最後、樹里が佑のためにピアノを弾くシーン、一礼する樹里がぼろぼろ泣いているのを見て「ああ、ここはそうだな」と思う。こらえたら、カッコいいかもしれないが、これはぼろぼろ泣いてしまうのが普通だろう。

細かいことを言えば、樹里が井上主任に初めて会うシーンで、井上主任が「カトリック教」という言葉を使うのも、教派の区別に「カトリック教」「メソジスト教」という呼称を使う韓国の習慣の名残だったりするのだが、それより何より、このドラマツルギーが、キリスト教がきっぱりはっきり信じられている国でなければ成立しないと思う。では「キリスト教の持つドラマツルギー」とは何か。

たとえば、この作品における「キリスト教のドラマツルギー」とは、「負の連鎖の終点を夢見る」(90ページ)ために必要なのは苦しめられている自分自身が自分を苦しめてきた人を赦すことなのだ、とぼくは思う。そしてこれをぼくがキリスト教の「ドラマツルギー」と呼ぶのは、「赦せ」というのがキリスト教の教えだとしても、「赦すお話」それ自体の中には神さまが登場しなくてもいいからである。それは人間が自分ですることである。

『未来少年コナン』とはコナンがモンスリーを赦す話だとぼくは思うのだが(赦されたいと願って実際赦しを受けるモンスリーがどんどんきれいになって行くのがあのお話のすごい魅力の一部だと思うが)、あの物語それ自体の中には神さまもキリストも聖書も聖職者も全く登場しない。ドラマツルギーだけがキリスト教なのである。

『私たちの幸せな時間』は、それに比べればきっぱりはっきりキリスト教のお話である。樹里が拘置所に行くのもモニカ叔母がいるからであり、そして佑は洗礼を受ける。それでも、クリスチャンではない読者はこの作品を読んで「キリスト教があるからこのお話は成立しているのだ」とは思わないだろう。ぼくはそれでいいと思うし、その方がいいとも思う。佐原ミズさんがあとがきで

人から背負わされてしまった大変大きな傷ですが、それを緩和出来るのもまた人なのだなと教えていただいた気が致します…。

と書いているのは、たしかにそうなのだとクリスチャンとしても思う。だから読者がこれを読んで「ああ、いいお話だな」と思えばそれでいいと思うのだが、とにかく「赦す」というドラマツルギー(赦せなかった人を赦すことを覚えるというあらすじ)はキリスト教のものである。「ものである」というと「専売特許である」という風に聞こえるだろうか。そうではない。単に「赦すことはキリスト教の本質のひとつだ」ということである。

そういえば、「ウィキペディア」によれば、韓国ではクリスマスは「聖誕節」という公休日である。

(2011年3月)