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ラブフール

けろりん先生の『ラブフール』という作品はこのブログにとって特別な存在である。

ブログ1年生だった頃、自分が誰に向かって何を書けばいいのか分からなかった中で、「けろりん ラブフール」でこのブログを訪問される方がけっこうおられ、それこそグーグルで「けろりん」と検索するとご本人のサイトの下に「鳩の切り売り・量り売り マンガ:けろりん」と出たりして、当時のぼくは「そうか、オレは『ラブフール』のことを書けばいいんだ」と思ったものである。

ちょうど『ラブフール』の単行本が出るタイミングでもあり、「ふつうのブログってニュースみたいなことを扱うんだよな」と思ってそういう記事をアップしたりもしたのだが、そうこうしているうちにぼくはパピローマ(声帯乳頭腫)で3年ぶりに手術することになり入院してしまった。「NTT西日本大阪病院」の病室に引かれたぎりぎり1Mbps出るか出ないかの自称「ブロードバンド」で多少イライラしながら(それでも大部屋を戸棚で区切っただけの病室にLANケーブルが来ているというのはありがたいことである)、42歳・大厄でもあるし、麻酔か何かで思わぬ事故になったら遺書になるかもしれないと半ば本気で思いつつブログを更新した。

すると、今だから書くのだが、実はそれを読んで、けろりん先生がメールを下さったのである。ちなみにこのブログの読者でぼくにメールを下さったのは今に至るまでけろりん先生ただひとりである。

ぼくはかねてから「愛好家としてよい作品が生まれることをサポートできるのは無上の喜びだ」と思ってきたので、そのメールはたいへんうれしかった。自分のブログが自分の願った役割を果たせている証拠だと思ったのである。だが当時、けろりん先生からメールをもらったことをブログで書くのは気が引けた。単行本の発売直前にマンガのレビューブログに作家先生がメールを下さいました、という記事を見て、「2ちゃんねる」とかに「けろりん先生必死だな(藁)」みたいな反応が出るのはぼく自身以上にけろりん先生にとって利益にならないと思ったのだ。

もうひとつは、結果的に見て、『ラブフール』のレビューというのは、その前に『ラブフール』を扱った二つの記事(「デジモノステーション」「マンガ上手」)同様、失敗作だったということである。フツーにあの作品を読んで抱く感想を書いた、というのと、ぼくが実際に書いた『ラブフール』のレビューは、やや隔たりがあり過ぎた。それは結局、ぼくがネット上での自分のスタイルを確立できていなかったということである。分かってみると何でもない、自分がもともと日記に書いてきたことと同じことを、ただぼくのことを知らない人でも読んで分かるようにしさえすればそれでよかったのだが、そういうことができないまま、ネットで何かを検索している人に自分は何を応えればいいのだろうかとあたふたしていた時期の姿が、『ラブフール』のレビューとそれに先行する2つの文章にはありありと表れている。何よりも、それらの文章は無駄に長過ぎた。『ラブフール』のレビューは結果的に2部構成になってしまったが、それを読んでも結局『ラブフール』って何なの?ということが分かるとはとても思えない。自分ではそういうレビューを書きながら、一方で「けろりん先生がメールを下さいました!」みたいなことを得意げに書くというのは、変な言い方かもしれないが「ひとのフンドシで相撲を取る」みたいな気がするのだ。作家がいるからマンガがあってレビューがあるんじゃないかと思うかもしれないが、マンガがあるということとレビューを書くというのとは別のことであり、読むに値するレビューを書くというのはあくまでレビュアーの仕事である。それを作家に何か押しつけてお茶を濁すというのは作家に対して失礼な気がしたのだ。

逆に言うと、今になって「けろりん先生からメールをもらいました」という話ができるのは、今なら『ラブフール』について、「自分としてはまあこんなもんだろう」と納得のできるレビューが書ける、ということである。というわけで、「再放送」シリーズの第2回は、けろりん先生の『ラブフール』である。

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あとがき。「タバコをモチーフにした史上最後のラブストーリー」、って書いてあるわけではないけど、そういう意味のことが書いてある。そうかも。タバコを吸う人はぼくの周りには今でもいっぱいいるが、喫煙それ自体が好意的に見られない社会ってぼく自身は何となく寂しく思う。このマンガ、エロマンガじゃなければ "JT" がスポンサーについたかもよ?

自分の書いたあのだだ長いレビューから『ラブフール』とは何ぞや?を的確に説明した箇所を抜き出せ、と言われたら、ぼくにとってはこの箇所かなと思う。この物語の第1話は「恋の煙」という短編で、「喫煙室で貴子さんと話がしたくてタバコを覚えた宇佐美くんと話がしたくて美佳ちゃんがタバコを覚える」という話である。ちなみに「恋の煙」の英訳は、「煙」じゃなくて「匂い」だけど、"The scent of love" だろうなぁと思う。

正直に言うと、ぼくは克也と美佳ちゃんがイトコ同士という設定にあまり好感が持てない。美佳ちゃんのエロエロな姿に、エッチ覚えたての女の子の、周りの見えないなりふり構わない一途で必死なところは看て取れるんだけど、でもイトコでしょ?と思う。これが宇佐美さんとだったら分かるけど……とか思っているとちゃんと宇佐美さんともヤッちゃうんだけど、最初はどきどきおどおどしているんだけど一度イカされてからは自分からくわえちゃうとか、このあたりの女の子の感情の機微はもう圧巻としか言いようがない。でも、でも美佳ちゃんは宇佐美さんとくっつくんじゃないんだよね……というところが、ぼくはどうにも消化できなかった。

由美ちゃんがかわいいのである。

エピソード02の由美ちゃん、何をやってもいちいちかわいい。いいコじゃん、この子。「ワガママだし短気だし執念深いし」ってエピソード06で英美ちゃんに言われるけど、何見てるか分かるじゃん、どっち向いてるか分かるじゃん、素直じゃん、この子。

書くべきことが書けなかったレビューのラストに、ぼくが苦しまぎれに書いた本音である。でも、でもこの物語で由美ちゃんはあくまでも三枚目の脇役に過ぎない。心からかわいいと思える女の子だけど、残念ながらこの子がいなくてもこの物語は成立する。それはトモちゃんがこの作品になければならない存在であることと比べればいい。この作品の暗くてはげしいユーモアはトモちゃんなしでは成立しない。この作品のラストシーンはやっぱりとっても意味深で、作品全体にいい感じの余韻を与えてくれるが、読み終わって本を閉じると「背を向けて走り去るトモちゃん」が裏表紙にも描いてあるというところが実に心憎い。

いや、これでいいんじゃないかな、『ラブフール』のレビューって。

「片想いのセックス」の話である、のだが、想われる側がからだを許してしまうところがこの物語の「濃い」ところである。……からだが忘れない限り、人はひとを捨てられないのだろうという、何ていうんだろう、情の濃さというか業の深さというか、だらしなさというか貪欲さというか、そういうものに惹かれなければ、この物語はただなんとなく「男の子と女の子が数珠つながりにハメ合っている」程度のお話にしか見えないだろう。

かつて書いた、だだ長いレビューの冒頭である。訂正する必要なんてどこにもないが、その「情の濃さ、業の深さ、だらしなさ、貪欲さ」の姿を、レビュアーがいちいち言葉にする必要はなかったんじゃないかといま思う。必要だったのは、その「情の濃さ、業の深さ、だらしなさ、貪欲さ」がいかに見事に描き出されているか、を語ることだったのだろう。

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けろりん先生のレビューを書こうとすると、自分がそれまで無自覚に使ってきた「マンガ上手」ということばはいったい何を意味するのか?という問題に突き当たってしまう。ぼくはけろりん先生のことを「マンガ上手」だと思うし、ぼくの言う「マンガ上手」の尺度から言って、たぶんこの世でいちばん「マンガ上手」な作家である。

では「マンガ上手」とは何か?

「個々の表現が心にストンストンと入ってくる」

その名も『マンガ上手』という文章で、ぼくはそう書いている。まあそういうことだ。で、今なら書けることを少し補足しておこう。

写真もそうなのだが、マンガも、本来は時間軸に沿ってずうっと発生しているできごとを、どの瞬間かで切り取って描くことで成立している。そうすると、どの瞬間を切り取るのがその場面を描くためにはベストかという問題がある。「マンガ上手」な人はそういう場面というか瞬間の「絵」、つまりひとコマの中に描かれるもの、の作り方が上手である。妹が小学生の頃さかんに主張していたのは、マンガはひとコマひとコマの寄せ集めで成立するのではなくページ単位で成立するものなのだということだったが、そういう言い方をすれば、場面の「絵」だってあくまでページ単位の構成の中で成立しているものなのだろう。ぼくが榎本俊二のことを「マンガ上手」と呼ぶのはたぶんこの意味である。

もうひとつは「絵にムダがない」ということである。「デフォルメ」とか「様式化」とか言えるかもしれないが、たとえばきづきあきらの初期の絵のような「デフォルメ」あるいは「様式化」というのは、作品に独特の個性を与えるものであって、「ムダを省いて成立した」「ムダを省くために成立した」というのとは少し違うところにある。王嶋環や榎本俊二のデフォルメや様式化というのは、もちろんそれ自体個性であるとは思うけれど、この世に存在するありとあらゆるものの形を自分の筆で絵にするというプロセスがふつうに生んだものだろうと言える(きづきあきらの絵がそうではなかったというのは画風が変遷していることからも分かる)。

さらに、これはマンガのレビューブログを続けていた賜物だろうが、ほへと丸さんの『じゃじゃプリ!』を読んでいて、ぼくは自分が「動きを上手に表現できるマンガ」にとても敏感に反応するということに気づいた。たとえば、いまこのブログには野中英次原作・亜桜まる作画の『だぶるじぇい』というマンガのレビューがあるが、冒頭に第2巻の裏表紙を選んだのは、本文で「第2巻がおすすめ」と書いているからというよりは、はじめがピッチャー・マリアがキャッチャー・小夜がランナー、というその絵の動きが気に入ったからである。

「場面(カット)づくり・動きの捉え方・様式化」が的確なマンガを、ぼくは「マンガ上手」だと感じるようである。で、けろりん先生はこの3つについてはぼくの中では右に出る者がない。ページで構成するというよりはひとコマひとコマの中身を見せる、『ナウシカ』の宮崎駿みたいな、つまり妹に言わせれば「生粋のマンガ畑出身とは少し違う」、マンガであるような気もするが(まあけろりん先生は本職は「イラストレータ」なのかもしれない)、場面場面での動きのつくりの活き活きとした感じはちょっと類を見ない。ぼくはこの人のイラストを『ボディランゲージ』所収のもの以外知らないが、「一枚の絵でドラマのすべてを表現する」ということに、あるいはけろりん先生は情熱を傾けてこられたのかもしれない。もちろん世の中には、後期の大島弓子さんみたいに、平板な絵とコマ割ながら読む者をどうしたらいいか分からないすごい体験に引きずり込むことのできる方もおられるので、ぼくの言う「マンガ上手」がいいマンガの条件だったりするわけでは全然ないのだが、マンガというのはやっぱり「絵を見て楽しむ」部分はあると思うので、『ブラックラグーン』みたいに何もかもが精緻な作品はやっぱりすごいのだけれど、絵を描くことによって不可避的に成立する様式化というものに個性のきらめく作家というのが、ぼくは好きなのだ。絵として、楽しいのである。

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けろりんの『ボディランゲージ』(大都社)。カラーイラストをモノクロで見る残念感に打ちひしがれたあと気を取り直してお話を読む。かわいい。エロいかと言われたら「かわいい」と答える。これを読むとわざわざ『ラブフール』の単行本化を望むまでもないかなという気になる。だって、『ラブフール』を単行本にしてもこの本よりはかわいくならないだろうから。

これだけの文章で、当時ひとがぼくのブログに「けろりん ラブフール」で殺到(とまでは行かなかったけれど)したのである。当時いかに「けろりん ラブフール」の情報が少なかったかということである。

で、「デジモノステーション」という、何の話がしたいかよく分からない文章を書いて、ぼくは自分が当時いかに狼狽していたかを露呈してしまったのだが、そこにこんなことを書いた。

『ボディ・ランゲージ』の魅力は「マンガ上手」というのとは少し別のところである。「かわいい」、もうこの一言に尽きる。……もちろん、どうかわいいか説明すればいいのだろうが、……ひとつだけやってみよう。最初の作品「嘘」。「おまえだけだよ」という言葉が「うそつき」なんだけど(そうじゃなければこの話は始まらない)、それに「きらい」と応じる言葉も「うそつき」なんである(それがこの話のオチである)。かわいいでしょ?ダメ?分かんない?

で、けろりん先生がメールを下さったとき、この箇所がツボった、という内容のことを書いて下さって、ぼくはたいへん恐縮したものである。せっかくなのでそのやりとりをご紹介したい。

> ボディランゲージの感想は嬉しかったです。
> なんか「そうそう、そこなの!」って的確だったのです。
> 男の人にはああいうの、たぶんほとんど通じないと思っていたので。
> というかすごい嫌われたりするしw

「嘘」の話でしょうか。たいへん恐縮です。
最後の「きらい」が「うそつき」なのは誰でも分かると思いますが、
男の「おまえだけだよ」が「うそつき」だということが分からなければ、
この話のシチュエーションそのものも、そして最後の女の子の「きらい」の
かわいさも分からないだろうなー、と。

高校時代から、松本充代さんとかやまだ紫さんとか内田春菊さんとか、
何より西村しのぶさんとか、そういう女の子目線でものを見る作家さんの
作品を愛読してきた結果、こういう理解力が育まれてきたのでしょうか。
いやもともと女性的な感性のある男なのかもしれませんが。

ぼくは女の子目線の作品が好きなのだけれど、「女の子目線の作品が好き」ということをどういう立場から言えばいいのかという問題にはいまだに答が見出せずにいる。「ああ、かわいいなぁ」と思うのだが、それはたぶん「共感」が生む感情なのだけれど、ぼくはどう見ても男であり、どこでどう共感しているのかということをいちいち説明しなければならない。そこが、ぼくが『ボディランゲージ』が大好きであるにもかかわらずこの作品について多くを語れない理由である。

で、語れないものを無理して語ろうとしても何も生まない、ということが最近分かってきて、いまぼくは無理をしないようにしている。そして、できないことを無理にしないことで逆に「実はできること」に気づいたりするのだが、『ボディランゲージ』に関して「実はできること」があるとすれば、それは「ここまで正々堂々女の子目線で描き通されたエロマンガって、もしかしたら空前絶後かもしれない」と言っておくということである。事実は知らない。エロマンガを女の子目線で書いても売れんだろ……ということで、こういう作品は実は他にもあるのかもしれず、しかし売れないから埋もれるばかり、ということなのかもしれない。女性のエロマンガ家はいくらでもいると思うが、少なくともいとうえいや井ノ本リカ子のマンガは、女性的な感性で成立していると言うことはできても、決して「女の子目線」ではない。

上のレビューにもあるが、『ボディランゲージ』は大半がカラー原稿をモノクロ化して作ってある。けろりん先生のサイトにこの本を紹介したページがあるが、順番もなぜか連載時のものと異なるらしい。となれば、『ボディランゲージ』は、元の版が絶版であることでもあるので、ここらでフルカラーの「完全版」が出たりしてもいいんじゃないだろうか?

とか思ってトップページに戻ったら、なんだこりゃ?!

●来春、「Body Language」がフルカラーで少年画報社より再販の予定です。
 10年前の本でございますwたぶん双葉社から出る単行本と同時かと思います。
 読み返せないので修正も出来ません(゚∀ ゚)が!新しいイラスト、
 未収録の漫画などで構成を変えてお送りできればと思っています。

いや実は、この「再放送」でけろりん先生を取り上げようとしたとき、その記事の上にある「予定としては来春3月ごろエンジェル出版よりマーク付きの単行本として発売予定です」という部分は念頭に置いていたのだ。「またまた協賛企画でございますね」と。しかしほんとに『ボディランゲージ』の完全版が出てしまうとは……。日本に生まれて良かったというか、自分がいいと思っているものをひともいいと思っていると知らされる気がして、ぼくは幸せである。

(2011年2月)