カテゴリー「マンガ」の5件の記事

あとかたの街

Atokata01

『この世界の片隅に』を観たという話をしたところ、おざわゆき『あとかたの街』(講談社KC BELOVE)というマンガもお薦めですと言って下さった方がおられたので、「ツタヤ」で借りて読んでみたら非常に面白かった。

全5巻なのだが、最終巻の巻末に「戦後70年スペシャル対談 おざわゆき×こうの史代 戦争の時代を漫画で描くということ」というのがついていて、そこにこういうくだりがある。

こうの 私はおざわさんの漫画を読んで、食べ物がなくお腹がすくことを、「漫画で表現できるんだ」と初めて気づかされたんです。私には不可能だと思っていました。私にはとてもできない方法で、それを表現されていることに驚いたんです。

おざわ ありがとうございます。

そう、このマンガは「太平洋戦争末期の日本人はお腹がすいていたのだ」ということをはっきりと伝えるところから始まる。当時が食糧難だったことはみんな知識で知っていると思うけれど、たとえば『はだしのゲン』だって『この世界の片隅に』だって、その空腹を読者に実感させることのできる作品ではなかった(それは、いま挙げた作品のどちらもが、読者に空腹を実感させる、こうのさんの言う「方法」、つまり「料理それ自体をおいしそうに描くこと」になじまなかったからだろう)。

そして『あとかたの街』は、そこから話を始めることで、『はだしのゲン』や『この世界の片隅に』とは違ったトーンで太平洋戦争末期を語ることに成功している。

どんなトーンなのか。

Atokata02

何度も書くが、こうの史代さんが『夕凪の街』や『この世界の片隅に』を書いたときの姿勢というのは、「ヒロシマを描くこと・太平洋戦争を描くことが、既成の政治的ディスクールの一部に取り込まれてしまうことを非常に慎重に避ける」というものだった。前述の対談の中でもそのことが改めて繰り返されているので、少し長いし『あとかたの街』の話からすれば横道なのだけれど、引用しておく。

おざわ 以前、こうのさんがご自身の作品を戦争漫画とひとくくりにされることについて、「私は戦争の伝承者として描いているわけではない」とおっしゃっているのを記事で見たことがあるんです。

こうの ええ。

おざわ 私はそのお言葉にとても納得しました。

こうの 私は戦争を描く者として、たくさんある中のひとつのテーマとして「戦争」を描いたにすぎないんですね。というのも、戦争漫画は「戦後漫画の伝統」だと思っているところがあります。夏ごとに読み切りが載ることもそうですし、手塚治虫先生らも戦争体験をされてらして、その体験が傷として残り、作品となり、そこから人生観や死生観を抱いた読者の方々はたくさんいます。戦争漫画は、たくさんの漫画家さんによって描かれなければいけないと思っています。ひとりが独占して描いてしまうと他の人が描きにくくなりますし、いろんな絵柄の人がいて、いろんな描き方の人がいないと、届く人が減ってしまうと思います。このジャンルは幅広くなっていってほしい。

おざわ 「戦争の伝承者」とくくられてしまいがちですが、「その位置ではない部分」から描くというアプローチは大事ですね。

こうの その通りだと思います。

「ここでおふたりがお話しになっているのは『マンガとしてのアプローチの違い』の話に過ぎないのではないですか」ときく人もいるかもしれないが、いま改めて『夕凪の街』のあとがきを読み返し、なんでこうの史代が自分のスタンス・アプローチの問題を最初にこれほど考えたかというと、やっぱりそれは自分の作品が既成の政治的ディスクールの一部に取り込まれてしまう結果に陥るのがイヤだったからだろう、と思う。面と向かってそういう言い方はできない(「反戦・平和」というのが正義の一部であることを否定できる人はいないはずだ)けれど、やっぱり「それだけ」の作品にしたくないとこうの史代が思ったとしたら、その理由は知らないけれど、そのこと自体はとても納得できる(ただ、ぼくは個人的に、その結果として生まれた『夕凪の街』という作品があまり好きではない。『夕凪の街』は「現代人にとっての分かりやすさ」をあまりにも優先し過ぎていて、「これがほんとうに当時戦災に遭った人たちの実感なの?」と、ぼくは疑問を抱かずにいられない)。

Atokata03

一方、『あとかたの街』は、太平洋戦争末期について、当時の銃後の生活と何より空襲について、「あんな目に遭うのは二度と御免だ」とはっきり思っている人たち、そう思うからこそ自分たちの体験を後世に伝えたいとはっきり意識している人たち、が提供して下さった資料を積み上げて描かれた。そして作者自身、「そういう体験と資料の果てに何らかの政治的ディスクールが生成されていくとしたら、それはそれで当たり前のことではないか」と割り切ったところで作品を公開しているのだと思う。

そのひとつの証拠が、第3巻のカバー見返しにあるメッセージである。

戦争をテーマに漫画を描いていると、つくづく思うのですが、戦争というのは”過去”の事ではなく、”今”も”未来”もなのだなぁということです。私達に出来る事は、今を”戦前”にしない事だと思います。 おざわゆき

これは「政治的ディスクール」そのものかもしれないけれど、シンプルな実感としてもやはりそうだろう。ちなみに、「夕凪の街」が『漫画アクション』に掲載されたのは2003年、「あとかたの街」が『BE・LOVE』に連載されたのは2014-2015年である。「戦争マンガをいったん政治的ディスクールからひっぺがしたあとそれが再び政治的ディスクールの一部になっても構わないと割り切れるまで10年かかった」という言い方ができるかもしれないが、その10年間で読者の意識がそれほど変わったとも思えない(もっともこの間、政権それ自体はいったん過去最大に左ブレしたあと過去最大右に振れ戻して戦後70年を迎えたけれど)。

Atokata04

では、『あとかたの街』は、太平洋戦争末期をどのようなトーンで描いているか。

いつもお腹が減っている、国民学校高等科のあいちゃん。彼女が戦争という現実を前にいつも感じるのは、

無力感である。

太平洋戦争末期の銃後の生活を描いた作品としてぼくが読んだのは、マンガだと『はだしのゲン』と『この世界の片隅に』、小説だと三浦綾子さんの自伝と今江祥智の長編小説(と、直接には終戦直後の物語だけれど、野坂昭如の『アメリカひじき・火垂るの墓』)ぐらいだけれど、どの作品も当時の生活を「何らかの信念を持って自分なりにたたかっていた」と描くか「つらいなり苦しいなりに日常というものがあった」と描くかのどちらかだったように思う。

だが、『あとかたの街』を読んで思うのだ、「何ヶ月単位で空腹にさらされ続けている人たちが意気軒昂・気力充実してるわけがないよね」と。ぼくは6日断食したことがあるが、5日目・6日目と復食してから2・3日はもう動くことも考えることも何もできなかった、それこそ「食べ物のことを考える」こと以外。あの状態を何ヶ月と続けながら、竹槍を握ったりバケツリレーしたりできるものか。そこにB29やP38(「グラマン」ではなくてライトニングに機銃掃射されたという話はぼくは初めてきくが)が飛んでくるのである。気力を奮い立たせろという方が無理なのではなかったろうか。

もちろん、それを口にしてはいけない時代だったのである。だからみんな言わなかったし、考えないようにしてきたのだが、「内面を描く」ことで成立する少女マンガで太平洋戦争末期を描くとしたら、その「内面」って、やっぱりまず「空腹」で、次は空腹と米軍の圧倒的装備とを前にした「無力感」だろう、ということになる。作者に体験を語ってきかせた人たちがこの無力感を自ら口にしたかどうか、ぼくは知らない。それをあえて口にした人たちはいなかったのではないかとぼくはなんとなく思うけれど、作者の中で「あいちゃん」が造形されていく中で、あいちゃんの内面の核心はと考えたら、誰も語らなかったことだけれど、空腹と無力感しかないだろう、というふうになっていったのではないだろうか。

そうやって、語られたことばでもそれを聞いた作者自身でもないところに空腹と無力感を抱えた「あいちゃん」が生まれて自分の足で歩き出す。そのあいちゃんの生命が戦後70年の「政治的ディスクール」を超えたところで確固として存在しているから、この作品は成立しているのである。おくづけに「この作品はフィクションです。実在の人物、団体名等とは関係ありません。」と書いてあって、いやこの作品は一種の実録モノなのではないの?と一瞬思うが、資料をそのままマンガに起こすことを超えて高度な文学的造形があってはじめて成立しているという意味では、この作品はやっぱり「フィクション」だし、「フィクション」だから持ち得る生命が、この作品にはあるのである。

(2018年4月)

靴ずれ戦線2/大砲とスタンプ2

Vasyenka02

先月になってようやく『靴ずれ戦線』の第2巻を買って読んだのだが、一読して思ったのは、第1巻を読んだ時にこのブログで「戦争がほのぼのと描かれているものを好意的に読むというのは考え始めると逡巡というか躊躇というかのある行為である」などと書いたのはマズかったかな……ということだった。「この作品にも戦争の苦悩を盛り込むべきだ」とぼくは言いたかったわけじゃなかったんだけどな……。

*

Martina02

『大砲とスタンプ』。今年のはじめ、第2巻を買おうかどうしようか迷っていた頃、突然このマンガとショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第1番の第2楽章がとてもハマるということに気づいた。正直言うと、ぼくはショスタコービッチのこの曲がイマイチ分からないのと同様に『大砲とスタンプ』の面白さというものも十分に理解できずにいたのだが、この2つが結びつくことで「ああ、両方とも、この『収拾のつかなさっぷり』を楽しめばいいのか」と気づいたのである。

で、第2巻を買った。いやあ、面白い面白い。

このマンガをモノクロのアニメにして、セリフなしでショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第1番第2楽章と合わせたら、さぞ面白かろうと思う。どのエピソードのどのシーンを取ってもぴったりハマりそうだ。ぼくの中ではもはや、このマンガはこの曲のイメージドラマとして描かれたのではないかとさえ思えてくる。

*

02

※上の画像は「多摩工房」様から「1/700 旧ソ連 ロシア海軍 空母 ミンスク」。画像をクリックすると他の画像もご覧いただけます。

ロシアファンになったきっかけがソ連海軍、というのはこれはなかなか珍しいプロフィールではないだろうか?

『空飛ぶ速水螺旋人』より「余はいかにしてロシアファンとなりしか」

そうなんや。

それやったら、ウラジオストックに「ミンスク」が配備されて対馬海峡を航行する姿が新聞にも載るような時代に中学生だったぼくもロシアファンになってもよかったのだ。ぼくだってソ連艦艇が大好きで、特に「ミンスク」は『世界の艦船』を買って自分なりに研究しボール紙でウォーターライン・モデルまで作ったぐらいだし、考えてみれば当時のぼくは毎晩10時にはなぜかモスクワ放送を聴くという習慣さえあったのだ。日本のメディアがソ連のアフガニスタン侵攻を連日報道している時代にモスクワ放送がアメリカのエルサルバドル「侵攻」を連日報道しているのを聴きながら、そういう意味での「世界の裏側」に触れることを当時のぼくは興味深く思っていたものだ。

でもならなかったよね、ソ連ファンにもロシアファンにも、あるいは左翼にも。なんでだろうね。

(2013年06月)

靴ずれ戦線/大砲とスタンプ

Vasyenka

『靴ずれ戦線』という本は、去年の年末およそマンガを置いているような書店であればどこにでもあるかのような様相を呈していた。それでぼくも、入院していた病院の近所にあった本屋で購入して読んだ。

入院中最大の愛読書だった、と言っていいと思う。別の記事でも書いたが、入院患者というのはやっぱりどこか弱っているところがあるので、読んでいて和むところのあるマンガにどうしても手が伸びてしまう。で、『靴ずれ戦線』というのは「和む」という点においてはぼくにとってもう間違いなく和むマンガだった。「退屈していた元気な女の子が魔女だからというのでソビエトに従軍させられて好き放題する」というマンガである。好き放題というと語弊があるかもしれないが、この物語で大事なことは、ロシアの魔女やら精霊やらはソビエトにとっては必ずしも敵でも味方でもないということである。主人公の魔女はワーシェンカというのだが(「ウィキペディア」で引くと「ワーシェンカ」というのは「ワシリーサ」の愛称としてはあんまり一般的ではないみたいでもあるのだが、これは特定のモデルがいるのだろうか)、ワーシェンカ自身にしたって別にソビエトの味方をしたいわけでもファシストをやっつけたいわけでもない。だから彼女を徴用して部下?にしているナディア少尉(ナージャ)にしてもワーシェンカのやることにはやきもきするのだが、ワーシェンカはナージャの顔をつぶすようなことはしないので何とかなっているのである(本人はベルリンに行ってみたいだけである)。

戦争がほのぼのと描かれているものを好意的に読むというのは考え始めると逡巡というか躊躇というかのある行為である。戦争というものはつねに凄惨で殺伐としたものとして描かれなければならないというわけではない。戦争という現実を生きた人々の間にはそれなりのユーモアとか、あるいは驚きやら興奮やらというものもあっただろうし、そういう面から戦争を描いていけないわけでもない。しかし、21世紀(の、少なくとも市民社会)に生きる人間にとって、「戦争という現実」をこの世にもたらすのは他の誰でもなく自分たち自身である。人類の歴史において、戦争を始めるのは長い間特権階級の人々であった。特権ならざる階級の人々にとって戦争とは「駆り出される」ものであっても自分たちで始めるものではなかった。しかし、20世紀最大の戦争が終わったとき、人々はそれが「誰かが勝手に始めたもの」ではなく自分たちが始めたもの、少なくとも自分たちはそれを止めることができたはずのもの、と理解するようになった。それから四半世紀後、20世紀最大の戦争においては「巻き込まれた側」だと自分たちのことを思っていたアメリカ人が、ヨーロッパの人々同様、戦争というものを「自分たちが始め、自分たちが止めるはずのもの」と理解するようになった。これで、まがりなりにも市民社会においては、戦争は「自分たちが始め、自分たちが止めるもの」という認識が行き渡った、はずである(はずである。その上で「日本は市民社会と呼べるのか」という議論を別にしなければいけないのだろうか)。だから、21世紀における市民の関心は、戦争という状況下においてどのような人間的な側面があるかということ以上に、そもそも戦争というものは始めてもいいものなのかどうかということでなければならない。「ドイツ軍がコソボで空爆をする」というようなことは、明らかにそういう問題意識の上になおかつ出現した事態である(厳密には20世紀の出来事だし、「それでよかったのかどうか」すごく議論の余地のある出来事だけれど)。

『靴ずれ戦線』も、本来はそういう問題からは自由ではない。そのことと、「大祖国戦争」をほのぼのと描こうとしたこのマンガの登場人物の半分が、大祖国戦争それ自体だけでなく「ソビエト」に対しても受動的な立場に置かれた「ロシア」的な魔女や精霊であるということとは関係があるだろう。こういうことを「たかがマンガ」相手に考え始めるとしんどいかもしれないが、この作品に関しては戦争というものを理解する21世紀的なスキームはちゃんと踏襲されている気がする(読者の側がそのことに気づくかどうかはともかくとして)し、やっぱりそうでなければいけない気がする。ここでナージャがユダヤ人だったり、SSの将校であるディッケ・ベルタが片目・片手を失ったりすることを指摘したりするのは少し行き過ぎな気がぼくはするが。

*

Martina

速水螺旋人さんの本を他にも読んでみたいと思ったのだが、絶版本にはすごいプレミアがついているみたいなので、普通の値段で買える『大砲とスタンプ』というのをアマゾンで買った。こっちも戦時下の軍隊の話だが、戦争そのものは架空の状況であり、何が戦争をもたらしたかとかそういうところには踏み込まない。作者ご本人はあくまでもこれを「お役所仕事のマンガ」と考えておられるようである。

個人的にはたいへん身につまされる作品である。「局所最適化の総体として全体最適化があるはずだ」と信じる、ひとことで言えば「まじめな」主人公がいて、毎日書類仕事に精を出している。ところが、この辺が平時と戦時の違いなのだろうが、状況が日に日に変わっていってしまうせいで、局所最適化を積み重ねても全体最適化につながらない。こういう状況というのは、変に政治的素養のある人間にとっては誘惑というか罠である。「局所最適化を度外視して全体最適化を目指すべきなんじゃないか」と思ってしまうのである。しかし実際には状況が日に日に変わっていってしまうせいで、何が全体最適化なのか分からなくなってしまう。ぼくは戦争に行ったことはないはずなのだが、すでにあるはずの図面に基づいて建物を建てているだけなのになぜかこういう修羅場が現れてその当事者になっている、というような状況によく出くわした。誰かがどこかで失敗したのだ。そして、混乱の真っ只中で最適性を回復しようと目指しているはずの自分は、その失敗を助長しているだけなのかもしれないのだ。あのいたたまれない自己嫌悪を、このマンガを読むと思い出す。ぼくはマルチナみたいに二言目には「責任問題ですよッ!」を連発して自分は自分の局所最適化に戻っていくということができなかった。そうするべきだったのかもしれないと思ったりもするが、そうするべきだったのなら、そもそもそういう場面にのこのこ出かけていくべきではなかったのだろう。

このマンガでは、ある種の全体最適性の回復を目指し、陸軍に横領された金塊を強奪するため、兵站軍が列車強盗をするというまさにマンガという展開になる。こういうことは現実の世界ではできないことなので、読んでいて溜飲が下がるのだが、いったいそうやって手に入れた金塊を正規の収入扱いするにはどうしたらいいんだろう(そうしないと支出を「正規の文書で処理する」ことができない)と考え出すと、局所最適化と全体最適化の相克という問題はいつまでもついて回ることになる。ちなみに、「正規の文書で処理する」ということ自体はべつに局所だろうが全体だろうが最適化とは関係がない。それは単にトレーサビリティというか客観性というか、「だれでもできる、だれにでもわかる」ことを目指しているに過ぎない。しかし、業務そのものを正規の方法で最適化しておかなければ、おそらく正規の文書で処理することはできない。そうでなければ「正規の文書で処理する」ことはただの捏造である。第1巻の終わりでマルチナは結局そういう状況に追い込まれる。マルチナがそれでも「正規の文書で処理」できれば満足なのかどうかについては直接の言及はない。そういう意味で、この物語はぼくに限らず、誰が読んでも決して後味のいい作品ではないだろうとぼくは思う。この作品が作者の願いどおり「お役人の皆様から熱烈に支持され」るには、マルチナの局所最適化の努力が全体最適化につながる形で報われる結末でなければと思うのだが、起きてはならないことばかり起こる戦争というものを背景にしたお役所仕事でそんな夢が実現するはずがないだろう。平時でだって、十数年経って状況が少し変わってくると、制定当時は最適性を保っていたはずの制度が意味をなさなくなるのだ。それとも、ぼくのように「自分たちは何にせよ最適化を目指しているはずなのだ」と理解すること自体が、根本的に間違っているのだろうか。

(2012年3月)

だぶるじぇい

Double_j 久しぶりに『マガジン』を手に取ったところ、えらく綺麗なアニメみたいな絵のマンガがあって、原作/野中英次、作画/亜桜まるとある。「原作・野中英次ぃ?」とびっくりするが、読んでみると、ああなるほど、野中英次が原作かぁ!と思う。これは買おうと思い、きっとこんなマニアックなマンガはその辺の書店にはないだろうと勝手に思って「アマゾン」で1巻から3巻まで注文する(あとで書店で確かめたが、実際は割と置いていた)。

*

まず書こう、「このマンガは最初に第2巻を買うことをおすすめする」と。第2巻が面白くなかったら、第1巻と第3巻はそれ以上に面白いということはないと思う。

次に、この作品を簡単に紹介しよう。

概要:「鳥獣戯画」をマンガとして現代によみがえらせてテヅカ賞を獲ろうと目論む高校生・鳥羽一郎を応援する「伝統芸継承部」の女の子たちの右往左往を描く。

ジャンル:美少女ナンセンス。

どうだろうか。「野中英次」というのはすでにひとつのブランドなので、この作品に興味を持つ人はどうしても野中英次に引っ張られるっぽいと、「アマゾン」のレビューを読んでいると思う。だが「美少女ナンセンス」という言い方をすれば、こういう感じのマンガって、たとえばとり・みきとか、江口寿史とか、先達というか前例というかは結構あったんじゃないだろうか。今風の絵柄と言えば言えるが、「萌え」狙いなのかというと、こういう絵柄が少年マンガ誌に登場したのは別に最近のことではないだろう。今やふつうの「美少女ナンセンス」である。

で、いま書いたような、「鳥羽一郎を応援する女の子たちの美少女ナンセンス」としてまとまっているのが、第2巻である。本当は、「伝統芸継承部」という設定からもっといろいろふくらませていくつもりもあったのだろう。が、現状としては成功していない。3巻は新キャラがたくさん出てくるし、その分絵柄は楽しくなるが、マンガとして面白くなっていくわけじゃない(第48話の女の子たちが第27話のつまようじ職人たちだと気づくのにぼくはしばらくかかった)。それだったら、ゆたかの健気さと相良くんの困りっぷりを見ている方がマンガとしてはずっと面白い。し、これで野中英次の原作だと言われれば、はあ、なるほど、と思うのだ。第1巻のように『クロマティ高校』そのままの時間差ツッコミ落ちが頻発すれば、ああ、野中英次か、とは思うが、ぼくはそもそも『クロマティ高校』って好きじゃなかった。『課長バカ一代』を第1巻だけ読んで、ぼくは野中英次には飽きてしまっていたので、こういう形で作品が読めるのは、ぼくのように美少女もナンセンスも大好きな人間にとってはうれしい。 Double_j02_2

余談だが、真夜中の京急で『マガジン』を拾って(京急は駅にゴミ箱がないので終電近くになると車両の中がゴミだらけ新聞だらけ雑誌だらけになる)はじめてこの作品を目にしたとき思ったのは、「こういう作品を面白いと思う人間こそ、『きらら』の最初の読者になった人たちだったのではないか」ということだった。が、単行本を買って思うのは、「美少女ナンセンスという作品がこれまで『きらら』に登場したことはなかった」ということである。「世界観そのものが限りなくナンセンス」という点では『きらら』のマンガはつねにほとんどがそうだったのだが、ナンセンスそのものを狙ったマンガというのはたぶんなかったのである。

(2011年1月)

進撃の巨人

Ackermann01 『進撃の巨人』という作品があって、宝島社の「このマンガがすごい!2011」の1位に選ばれたのだという話は "HK-DMZ PLUS.COM" の12月13日の項に載っていた。ぼくはあんまりふつうの少年マンガを読まないのでスルーしていたのだが、最近読みたいマンガを全部買って、それでもマンガを読みたいと思ったので、せっかくだからと買ってみた。

"HK-DMZ PLUS.COM" の茄神緑さんは「これは話題になるだけあって面白いわ」と書いているが、たとえば『ブラックラグーン』を読んで「ああ、面白いわ」と思う完成度というのとはまったく違うところにある作品である。好きか嫌いかというとぼくは好きなタイプの作品だが、これをして人に薦めろと言われると「うーん」と思う。

この作品にはカタルシスというものがない。不正確だが分かりやすい言い方をすれば、「この作品にはヒロイズムというものがない」。それが狙ってそうなっているのか、それとも作者の力量不足でそうなってしまっているのかが、現段階では分からない。

この作品の帯に「これが21世紀の王道少年漫画だ!!」というキャッチフレーズがあるが、それは違うと思う。断じて違うと思う。

「王道少年漫画」にはカタルシスがなければならない。ぼくが東大阪の銭湯で『ワンピース』を読んでいたのはもう8年くらい昔の話になるが、ぼくはそこで毎週『ワンピース』を読んではうるうるしていたものである。その、毎週毎週これでもかとうるうるさせられる『ワンピース』という作品にぼくは「すげーな」と思っていたものだが、だからこそ『ワンピース』は『ジャンプ』の看板マンガであり得るのである。明確な世界観を描くということについては『ブリーチ』だって、それこそ『ハンター×ハンター』だって『ワンピース』に負けてはいないだろうが、カタルシスの有無という点に関しては、『ワンピース』は(最近読んでないから分からないが)、やっぱりいまの日本では圧勝だろう。そして、『ドラゴンボール』だってそうだろう。『ドラゴンボール』が世界中で大人気なのは、もちろんあの絵柄だからだろうとは言えるけど、やっぱりちゃんとしたカタルシスがあるからである。

それが「王道少年漫画」である。予定調和は嫌いだといって『エヴァンゲリオン』みたいな作品が好きだと言ってみせるのはオタクである。その境目にいるのが、たとえば『ハガレン』だったり、あるいはさっき言った『ハンター×ハンター』だったりするのかもしれないが、エドにしたってゴンにしたって、作品においてカタルシスをもたらす力のあるキャラだということは読んでいればはっきりと分かる。

『進撃の巨人』はそうではない。エレンとアルミンが力を合わせてこの作品にカタルシスをもたらすと、読んでいても読者は信じられない。というか、この作品は根本的に、人類が巨人を倒して壁の外に出て行くまでのドラマを描こうとしているのだという気がしない。ちょうど「これが『進撃の巨人』作者だ」という「2ちゃんねる」のまとめスレが紹介されていたが、「途中から全然ツマラナイ」という意見があったのも、話が進めば進むほどカタルシスの方向性が見えなくなるからだと思う。

「カタルシスなんてなくてもいいんだ」というのは間違いである。闘うマンガは主人公が勝たなければいけないということはないと思うが、自分たちが闘ったことにはそもそも意味なんてなかったのかもしれないという終わり方をすることは、闘うマンガという大枠を選んだことを作者が自ら否定するような気がしていただけない(いとうえいの『断罪者』ってぼくにはそういう作品にしか見えない)。

じゃあ、『進撃の巨人』ってなんで面白いのか。「エレンとアルミンが力を合わせて世界を変えるんだ」と信じるミカサのことを放っておけないからである。この作品の主人公をミカサだと言ってはいけないのだと思う、なぜかというとミカサにはこの作品にカタルシスをもたらす力がないから、あるいはミカサは自分でそう信じていないから。でも、ミカサがエレンとアルミンのもたらす新しい世界を信じなければ、この物語は物語にさえならない。

女の子の心理描写で作品が紡がれているという見方をすれば、この作品は「王道少年漫画」どころかそもそも少年マンガですらないのかもしれない。だが、ぼくはミカサという寡黙で真摯でずば抜けて優秀な女の子がとても好きだ。ミカサ・アッカーマンを「長門有希や綾波レイと同じようなヒロイン」と言ってしまうと、この作品のコアなファンを敵に回すような気もするのだが、でも分かりやすく言えばそういうことだ。このマンガが「21世紀の王道少年漫画」であり得るとすれば、それはこの作品がミカサによって成り立っている「萌えマンガ」であるから、ではないだろうか。もちろん、このキャッチコピーを考えた人はそういうつもりではなかったのだろう。でも、たとえば『風の谷のナウシカ』だって、今にして思えば「長編伝奇萌えマンガ」だったわけだ。いや、そんなこと言ったら「萌え=21世紀の王道」という図式が崩れてしまうが、まあいいか。『進撃の巨人』はどのような意味においても「21世紀の王道少年漫画」じゃない、けど、ミカサ・アッカーマンはナウシカや綾波レイと肩を並べるキャラなのだ、と。 Ackermann02

いま改めてネットで調べたら、「巨人の気持ち悪さとミカサの長門っぷりだけの漫画ですね」というコメントが出てきて、いやちょっと、それはあまりというか何と言うか、でもまあ結局はそういうことだというか、うーん……。

ちなみに、巨人の造形を見ていると、この作者はデッサン力がないのかと思ったりするが、たぶんそうではない。ひとつは、人間の形をしていてこれぐらい大きくなったらおそらくこういうプロポーションでなければならないだろうという計算のため、もうひとつはある種の不気味さを演出するためである。

(2011年1月)

追記。何気なくネットを眺めていて、すごいレビューを見つけた。

「ああああ、なるほどおおおお!!」という圧巻レビューなのだが、このレビューを読むと思うのは、「オレにはもともと少年マンガを語る『熱さ』が欠けているんだろうなぁ」ということである。論法が丁寧だなあと思ってプロフィールを見ると、このレビュアーの方はプロの物書きの方だということが分かるのだが、それ以上にレビューとしてかんじんなのは、少年マンガのここに「燃える」っていうポイントを、自分の中でちゃんとつかんでおられるということだ。まあ、それを言うなら、ぼくは『ワンピース』にはうるうるできても、『進撃の巨人』には「カタルシスがない」と思うのだから、「燃え」も何もないということなのだけれど、だからこそ、この作品を読んで「燃える」というレビューが書けること自体が素晴らしいと思うのだ。

(2011年4月)