カテゴリー「※まえがきあるいはあとがき」の2件の記事

「読まれる記事」の条件

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この文章は

  1. 『鳩の切り売り・量り売り』の人気記事ガイドである。
  2. 「読まれるブログ記事の条件」について考察した一種のメタ記事である。
  3. 「新版・自由祈祷入門」のあとがきである。

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「ビル管理者試験合格体験記」と「断食体験記」のアクセス数がハンパない。シギサワカヤのレビューは1日にだいたい2人程度の訪問者数だが、上掲の2記事はその倍以上、1日にそれぞれ5人は訪問して下さっている計算になる。

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「ビル管理者試験合格体験記」 は、ある程度期するところがあって書いた記事である。書きたいことが非常にはっきりしていて(ビル管試験対策は2週間ではダメ、過去問だけではダメ、テキストが分かるまでは合格できない)その内容の正しさに絶対の自信があった(し、ぼくに向かって「こんなの2週間で合格る」とうそぶいたかつての同僚某氏にどこかで大いに反論してやりたいという私怨みたいなものもあった)ことが大前提なのだけれど、いちばんの期するところは「ビル管試験についてあのレベルの合格体験記を実際に書く人間が世間にはそんなにいないだろう」ということだった。

ビル管試験は「10人受けても2人は合格らない」(累計合格率18%程度)という決してやさしくはない試験で、合格体験記のニーズはそれなりにあるはずである。ところが、ビル管資格を「試験を受けて取得する」のは基本的には学歴のない現業職上がりの人たち(ビル管資格は学歴の有無によって取得方法が異なり、相応の学歴を持っていると3週間程度の講習を受ければ無試験で資格が取れる)で、おそらくまとまった文章を書いてネット上にアップする習慣がない。ぼくは文系出身なので学歴のない「たたき上げ」として試験を受けることになったのだけれど、実際にブログを持っていて記事をアップする習慣があるわけだし、せっかく合格ったのだから、ほんとうに合格りたい人たちに「何をすべきか」をはっきりと伝えておきたいしそれが自分にできるものならと思ったのである。

で、最初ふつうに書いてみたのだが、自分でも読み返す気がなくなるくらい長い文章になってしまい、「こんなのビル管を受験る人たちは読まないだろう」と思った。そこで思いついたのが一問一答式である。一問一答式で、結論というか伝えたいことをバンバン言い切ってしまう。理屈なんかどうでもいいのであって、とにかく答を言うこと、「結局どうすればいいのか」が一読して分かること。言いたいことを全部言ったので結構長い記事にはなったし(文字数をカウントするサイトを利用したところおおむね6,500字ということになり、「読まれるブログは2000字まで」という標準をかなりオーバーしている)、言っていること自体が必ずしも簡単ではない部分もあるけれど、面白い記事にはなったと思うので、たぶん最後まで読んでもらえているだろう。アクセス解析を見ると、平均滞在時間が2分ちょっとである。130秒あれば、あの文章は通読できるのではないだろうか。

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「断食体験記」 は、正直言ってこんなに人気記事になるとは思わなかった。ビル管試験と違って断食を論じるインテリはたくさんいるだろうと思っていたからである。あの文章で「伝えたいこと」は「絶食自体の効果に期待し過ぎないこと」というサブタイトルで尽きているのだけれど(それなりに刺激的あるいは挑戦的なメッセージではあるのかもしれないけれど)、あの文章のメインはやっぱり「断食体験記」、つまりこんなふうに断食したところこんな結果になりました、という状況報告である。読みやすさを考えてこれも一問一答形式にしたけれど、状況報告の部分については「多少読みやすくなったかも」という以上に問答形式であることの意味はない。あの文章を読む人にとって面白いのは状況報告の部分なのだろうか、それともメッセージの部分なのだろうか。ちなみに文字数はおおむね9,000字で滞在時間は3分ちょっとだから、こちらもたぶんひととおりは通読されているのだろうと思う。

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「読まれる記事を書いてみたい」と考えていくつか実験を試みた時期があって、 「小松菜の保存方法」 「FLVファイルをAVIファイルに変換する」 「繁忙期の新幹線でゆったり座る裏ワザ」 といった記事がその成果にあたり、実際ある時期まではアクセスランキングの上位を占めていたのだけれど、これらの記事を圧倒して長い間、そして今に至るまで、アクセスランキングのトップを争い続けている記事は 「酒に飲まれない方法」 である。この記事は長らくこのブログの精神的支柱を務めて下さっている「墨東公安委員会」先生がお酒に酔って怪我をされたことに心を痛め、ほとんど私信のつもりで書いた文章なのだけれど、公開してみたところ人気記事になったものである。ぼくはクリスチャンなのに酒好きで、ぼく自身は飲んでいる量に比べて酒のまちがいが少ない方だと思うのだけれど(自分でそう思っているだけかもしれないが)、世間の人が酒のまちがいで多くを失っている実態をたいへんかなしく思っていて、そういう人間として「酒に飲まれない方法」という文章を書いて世間の人に読んでもらえているのは喜ばしいことだと思うし、墨公委先生の尊い犠牲から生まれた記事を父なる神が顧みて下さっていることは「神を愛する者たち……には、万事が益となるように共に働く」(ロマ8:28)というみことばの真実を見る思いがして感謝である。ちなみに「酒に飲まれない方法」の文字数は約3,000字、滞在時間は約4分である。一問一答式の記事より読みにくいことを考慮しても、おそらくまともに読んでいただけていると思う。

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「書きたいことを書きたいように書く」というアプローチでコンスタントに読者をつけているのは 「同和と銀行」 である。

「ラディカル・ホスピタル」 を書いたとき、ぼくはある本を「批評する」というより「その本にまつわる個人的な思い出を語りながら『ぼくにとってその本はどういう存在なのか』を語る」というスタイルを確立した。「オレの書くレビューはこういうスタイルであるべきだしこういうスタイル以外のレビューはオレには書けない」という認識はずっとあったけれど、ずっと成功しなかったのである。で「こういうスタイルで文章を書けばいいんだ」と気づいたことはその後のこのブログのあり方に非常に大きな影響を与えたのだけれど、「同和と銀行」は特にこのスタイルに完全に忠実な、逆に言うとどういう意味においても「批評」とは言えないレビュー(「作文」とでも呼ぶのが適当かもしれない)である。

この記事が読まれていることとこの記事のスタイルとはあんまり関係がないと思うが、『同和と銀行』という本を読んだある種の読者が当然のように抱くであろう「ああ、ひと昔前の大阪ってこんなところだったよねえ」という(だけの)感想をそれなりの文章にまとめるためには、このスタイルが必要だったんだよなあ、とぼくは自分では思っている。

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シギサワカヤのレビューは間違いなくこのブログの人気記事である。

「批評」というものはある作品のユニークさを的確に言い当てる必要があるのと同時に、というかそれをなし得る大前提として、その作品をジャンルなり先行作品なりの系譜の中でどのように位置づけられるかという視野を持ち合わせる必要があるとぼくはずっと思っている(「アマゾン」のベストレビュアーの人たちが書くレビューってそういうことを実にコンパクトに的確になし遂げていてぼくはとても尊敬する)のだが、ぼく自身はそういう意味での「批評」をなし得る素地というものをまったく欠いたところでマンガを読んでレビューを書き続けてきた。作品と自分との一対一の出会いの結果として「ぼくにとってその作品はこういう存在なのです」ということをきちんと言葉にすることにぼくは専心してきた(だからぼくは作品と自分自身とに対しては誠実であろうとつねに心がけてきた)けれど、「批評」というものが果たすべき社会的責任をそれで果たし得たと思ったことは一度もない。

ひとことで言えば、ぼくのレビューは「批評」としての「有用性」(それこそ「アマゾン」のカスタマーレビューが持っているような「読むか読まないか、買うか買わないか」の意思決定に資するような)に乏しい、あるいは欠けているのである。そして、「有用性」に乏しい情報はネット上では人気が出ない。「かずといずみ」「ひらのあゆ」「ナヲコ」「美夜川はじめ」などで Google 検索するとだいたい2ページ目にぼくの該当記事が出てきて、それはそうした作家さんに関する情報がネット上で絶対的に少ないことのあらわれだと思うが、それらの記事のアクセス数が微々たるものであるのは、そうした作家さんに興味を持つ人が少ないということもあるだろうが、やはりぼくのレビューが「有用性」に乏しいからだろうと思う。

では、それらの作家さんのレビューに比べ場合によっては2ケタ違うアクセスをたたき出すシギサワカヤのレビューは「有用性」に富んでいるのかというと、ほかの作家さんについて「有用性」の高いレビューを書けない人間がシギサワカヤについてだけ「有用」なレビューを書けるということはない。「いや単純に、シギサワカヤがそれだけ売れてるということだよ」という理解が正解なのかもしれない。だが、ぼく自身は少し違うことを思っている。

ウソではないラブを告白できるかどうかで、言葉の値打ちは十中八九決まるのである。 「批評とは(特に商業作品に対して)」

たぶん、ぼくが「ウソではないラブを告白できた」のは、シギサワカヤだけだった、ということなのだ。

そのラブに気づかされたのは、「鳩の切り売り・量り売り」で Google 検索して出てきた、とある記事を読んでのことだった。

シギサワカヤ作品についてすごく考察してるブログを見つけてしげしげ読んでしまった。

「さよならさよなら、また あした」 のことを言っているんだろうなあ、と思うのだが、改めて言われると「……ああ、『すごく考察してる』かなあ」と思う。そして気づくのだ、「あの記事って、たぶんそらで書いたよなあ」と。「さよならさよなら、また あした」を書いたとき、ぼくのPCの左には何もなかったと思う。直接引用するときはさすがに見ながら引用したけれど、基本的にあの記事で言及している作品の個々の場面は、全部ぼくの頭の中に、心の中にあったのである。あったから、ああいう図式化がらくらくと出来たのである。

暗記してしまうくらい読みふけるということ、それは、ラブなのだ。それが、ラブなのだ。そして、それと同じレベルのラブを告白することが、ほかのどんなマンガ家さんに対しても、ぼくにはできなかったのである。

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このブログにキリスト教関連の文書をアップすることはいろんな意味において実験だったのだが、「オタクなインテリ、あるいはインテリなオタクに、キリスト教を『伝道する』というのではなく『クリスチャンとして生きるとはこういうことですよ』という本音の部分を伝えてみたい」という大筋そのものは、ずっと変わらなかった。だが読者はまったくと言っていいくらいつかなかった。理由は「このブログが不定期更新だったから」である。自分がいくつかのサイトの固定読者だった経験からすれば、「Webサイトに固定読者をつけようと思ったら最低週1回程度更新する習慣をつけなければならない」のである。固定読者がつけば、その読者向けにいろんな話題に取り混ぜてキリスト教の話をすることもできたろう。だがこのブログは固定読者をつかむには更新が不定期過ぎた。

現実には、このブログの読者は検索エンジンを利用して自分の入力したキーワードに従ってこのブログを見つけた人たちに限られる(「ビル管理者試験合格体験記」「断食体験記」「酒に飲まれない方法」「同和と銀行」「マンガ:シギサワカヤ」の読者のほぼすべてがそうやってこのブログに来られている)わけだが、そうすると

1. そういう方法で「クリスチャンが」検索エンジンから利用するには、このブログは内容的にミスマッチ過ぎた。マンガのレビューで出来ているブログに「神を恐れよ」「神の怒りとさばき」といった文章が混じっていても、しょせん「電波系」で読むだけ時間のムダだと思われたとしても仕方がない。

2. そういう方法で「ノン・クリスチャンが」検索エンジンから利用したとして、「聖書の読み方・信じ方」「福音とは何か」「クリスチャンであるということ」「信仰を持つと人生は変わるか」といった文章にたどり着くとはとても思えない。逆に「新・キリスト看板」「クリスチャン、『クルアーン』を読む」といった、信仰の問題としてはぐっと周辺的なテーマに読者がついたのは、それがノン・クリスチャンの方々の思いつくキーワードでヒットしたからだと思う。

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そんな中、ひとつだけ違う企図をもって書いた記事がある。「自由祈祷入門」だ。

自由祈祷の仕方を解説する文章を書いてみたいという計画をぼくは個人的にずっと持っていた。そして「自由祈祷入門」というキーワードでググってキリスト教の自由祈祷を解説したサイトが出てこないという状況をなんとかしなければならないという一種の使命感もずっと持っていた。そうした計画あるいは使命感を実際に形にしたのは2011年3月末、東日本大震災直後の特殊な状況の中でだった。できた作品をブログにアップして、「自由祈祷入門」でググってトップに表示されるようになるという状況にはすぐなった。だがアクセスは皆無だった。なぜなんだ?自由祈祷ができるようになりたいと願っている兄姉はいっぱいいるはずなのに?

3年間、ずっと分からなかったのである。それは逆に言うと、ぼくは自分の作品を3年間、自分の計画あるいは使命感を十二分に形にできたと思っていたということだ。

ところが最近になって、「ビル管理者試験合格体験記」「断食体験記」のアクセス数を見ながら気づいたのは「この記事は『誰に向かって何を伝えたいのか』分からないんじゃないか」ということだった。それだけではない。いま「この記事は『誰に向かって何を伝えたいのか』改めて説明してみなさい」と言われても、たぶんぼくは即答できない。

「自由祈祷入門」という作品を支える計画あるいは使命感というものは、いまも自分の中にあるのである。じゃあぼくは、この作品はいったい「誰に向かって何を伝えたいのか」改めて自分の中で明らかにできるはずだししなければならないんじゃないか、いやそれならいっそ、「自由祈祷入門」という作品をもう一度最初から書き直すべきなんじゃないか、それこそ問答形式で、と思ったのである。

一度書き始めて頭の中を整理し、「誰に向かって何を伝えたいのか」という問に答を出したあともう一度最初から書き始めて、気づいたのは、旧版の「自由祈祷入門」は、「誰に向かって何を伝えたいのか」が明らかでなかった、あるいは間違っていたことと同時に、「読めば自由祈祷ができるようになる」というあの作品の目的についてもおそらく達成はできていなかったろう、ということだった。そりゃ、そんな作品に読者はつかないだろう。旧版へのアクセスが皆無だったのは、当然のことだったのだ。

初心者向けの作品なんだからそれなりにコンパクトであるべきだ、という頭があった。旧版は全9章、文字数は16,000字程度で、新版も同じくらいには収めたいと思っていたのである。だが「読めば自由祈祷ができるようになる」という目的を達成するにはその倍の文字数ではきかないということが分かったとき、ぼくはあきらめた。コンパクトさを犠牲にしても分かりやすさと面白さがあれば読者はつくのではないか。ほんとうに面白いネットコンテンツを何日かにまたがって閲覧したことはぼくにだってあったし、そういう作品を目指せばいいのではないか。最終的な文字数はほぼ65,000字で旧版の4倍を超えたが、自分で読み返す分には半分以上は一気に読める気がする。半分読んで面白いと思ってもらえれば、あとの半分についても読者は戻ってきて読んでくれるだろう。

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「読まれる記事の条件」とは何だろうか。いま思うのは

  1. 伝えたいことがはっきりしていること。
  2. 期待する読者像をはっきり思い描いて、その人たちに伝わる書き方をすること。
  3. 書いていることがらについても伝えようとする相手に対しても、愛があること。

の3つだろう。1.と2.が達成されていなければ、その記事は「読まれない」と思うのだが、読まれた上でその記事のアクセスがどこまで伸びるかを決めるのは3.つまり愛である。

そして、この3つが達成されていれば、コンテンツが何であっても、また文字数がどれだけあっても(期待する読者像とミスマッチな長さでない限り)、読者は相応につくだろうと思う。「アフィリエイトで儲けたい」などと考えれば、自分のサイトの読者の絶対数を上げる方法を考える必要があるのだろうと思うが、単に「相応に支持されるサイトでありたい」と願うだけであれば、とにかく「自分が書いていることと自分を読んでくれる人とを大事にすること」で目的は達成されるだろう。これが、6年間ネットで文章を書き続けて得た、実感である。

よっぽど低俗な人間でない限り、ひとは愛の側へ引き寄せられるのだ(男も女も、老いも若きも)ということは知っておいて損はない。 「批評とは(特に商業作品に対して)」

のである。人は、満たされたいと思って生きているのだ。書いている側も読まれることで満たされたいと思っているわけだが、読んでいる人も読むことで満たされるような文章を読みたいのである。だから、読まれて満たされたければ読んで満たされるような文章を書くべきなのだ。それこそ、人口に膾炙したフレーズだけれど、

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。(ルカ6:38)

というみことばは真実なのである。

※この記事自体は約7,300字である。

(2015年01月)

批評とは(特に商業作品に対して)

書いておいた方がいい話かもしれないので書く。

数年前、妹がとある連載を始めたとき、その連載の第1回目を読んでぼくは感想を書き、メールで送った。それは妹自身ブログで「私のキャラに合ってないんじゃないか」みたいなことを書いていた、妹の作品としてはやや突飛な印象のある企画(とあるエッセイ?のコミカライズ)だったのだが、ぼくは「連載誌には合ってないと思うけど、貴女のマンガとしては悪くないんじゃないの?」という内容のことを、ぼくとしては応援メールのつもりで送ったのだ。ところが、あとで母から聞いた話によると、妹はそのメールを読んで大泣きしたそうである。なぜかは分からないし、「大泣きした」と聞かされた話を本人に確かめる術もない(そもそも、そのメールには返事が来なかった)。だから想像でしかないのだが、妹としてはそのメールを読んで「この連載が本意ではないことを衝(つ)かれた」と思ったのではないだろうか。ぼく自身はそういうことを書いたつもりはないし、そのメールをいま読み返しても、そういうことは書いていないとぼくは思う。しかしそのメールを読んで、もし妹が「ああ、この連載が本意ではないことが、兄貴にはバレたんだろうな」と感じたのだとしたら、それは否定できない。それは事実だからだ。

商業作品をちゃんとした「批評」の俎上に乗せるのはけっこう難しいのである。商業作品の生まれる経緯というのは簡単ではないが、たとえば上記の妹の作品の場合、カネではないと思うのだが、「マンガ描きたいし面と向かって断る理由ってないし…」みたいな感じで、でも「うわー、どうしよー」みたいな思いがいっぱいで引き受けたのだろう。つまり「この作品を通じて私はこういうことをやってみようと思うのです」と、自分から宣言できない状況になっていたのだ。そして、そういうことって、商業作品の場合はきっと結構あると思うのである。で、そういうことを考えると、商業作品に対するレビューというのは「これこれに期待して買ったー、よかったー」か「これこれに期待して買ったー、金返せー」かのどちらかというのが、実は作家にとっては気楽なのかもしれない。「○○先生って、この作品を通じて何がしたかったのだろう?」みたいないわゆる「批評」というのは、場合によっては作家本人にとっては居心地が悪いばっかりかもしれない。ちなみに妹の場合、幸か不幸か固定ファンがけっこういたばっかりに、「先生この作品で何がしたかったの?」みたいなリアクションが実際に散見された。そうなると分かっていたから、兄貴としては連載初回の感想で「フォローした」つもりだったのだが、結果的に大泣きしたと聞かされた時も「ああ、オレが『引導を渡した』格好になったのか」と思ったが、それが自分の役目だったとしたらそれは決して悪いことではなかったろうと思ってあきらめた。

期するところがあって世に出した作品に的を得た批評がつくというのは社会がよい作品を育てていくためにはあるべきことだと思う。が、世の中そううまくは行かないということは、批評する側もされる側も知っておいて損はないかもしれない。村上春樹は「作家の仕事と批評家の仕事は別のものだ」と(『朝日堂』だったっけ?で)書いた。ぼくはずっとそう思ってこなかったが、特に上に書いたことがあってから、「ああ、そうなんだ」と納得するようになった。「批評とは出された料理に酒を合わせることだ」と言うと「ああ、なるほど」と思う人もいるかもしれない。フランス料理のように、出された料理に合うワインを選べるかどうかで「食べる人を選ぶ」料理もあれば、中華料理のように根本的に酒を選ばない(食べる人間も選ばなければ食べ方も選ばない)料理もある。そして食う側としては、何をどうしたって自分の教養と情熱を超えたチョイスは出せない。客と料理人の蜜月を期してフレンチレストランの門をくぐるという娯楽もこの世にはあるし、まあまあの中華料理屋で高くはないワインを1本空けてたらふく食って「食ったー、酔ったー」とか言うのも娯楽である。大事なのは「自分と相手を正確に知るよう努めた上で、最終的には割り切ること」だ。ちなみにフランスワインは料理を選ばないがフランス料理はワインを選ぶ。中国酒は紹興酒も白酒も料理を選ぶが中華料理は酒を選ばない。面白いと思う。

「じゃあ批評って何?」と思うかもしれない。「豊かな教養と鋭い洞察、そしてそれを表現する適切な言葉、語る時を知る鋭敏と賢明、それに作り手への感謝と敬意そして愛。批評とはそういうものだが、それはおよそ『生きて享(う)ける』とき常に問われることのすべてではないかね?」

あ゛ーーー!!!!クサいっ!クサすぎる!でも言ってみればそういうことだ。上から目線でものを言うのは批評家のプライドかもしれないが、いま列挙したもののうちひとつでも欠けていれば、その批評は作家を活かしも殺しもしない。よっぽど低俗な人間でない限り、ひとは愛の側へ引き寄せられるのだ(男も女も、老いも若きも)ということは知っておいて損はない。ウソではないラブを告白できるかどうかで、言葉の値打ちは十中八九決まるのである。「もの書きはケンカ渡世と見つけたり」という人は結構多いと思うので「けっ、何が愛だよ」とか思う人は男も女も結構いるだろう。でも、残念ながらいま言ったことは真実である。

ぼくは、妹のことは、愛していると思うのだ。ぼくはマンガ家としての妹のバックグラウンドについては誰よりもよく知っている。それを書けば、妹のファンの中には興味深く思ってくれる人もいるのではないかと思ったりもするのだが、しかしいま思うのは「妹の作品にラブを告白するには、オレより適任な人がほかにいる」ということだ。正直言って、ぼくは妹の作品のどれを読んでも「描けるはずのことの一部分しか描いていない」としか思わない。知り過ぎているからだ。それは人間としての妹に対するラブではあり得ても、作品に対するラブではないだろう。そして、当たり前のことだが、妹は自由に描きたいのだ。それで、冒頭に書いたことがあってから、妹の作品に対するレビューは極力書かないことにしている。もちろんこのブログで妹の作品に触れたことはない。

(2009年7月)