カテゴリー「マンガ以外」の3件の記事

STRANGEDAWN

『ストレンジドーン』というアニメを観る機会を得たので、その感想というか、この作品のテーマとラストの意味について思うところを書いておく。

この作品を知ったのは、美夜川はじめが好きだった2009年頃の話である(美夜川はじめのコミカライズ版を目にする機会は結局なかったけれど)。その頃はまだ公式サイトが残っていて、見て「なにこれ?」と思ったものである。

ネット上の評判も、あまりよくないように思えたのである。こんな、こんな素晴らしい作品だとは、想像もしなかったのである。

もしぼくに絵が描けたら、残りの人生を『ストレンジドーン』の二次創作に蕩尽してたんじゃないか。ユコとマニの絵を描くことに自分の時間のすべてを使い果たしていたんじゃないか。そして、ユコの「うすい本」とか大量に作ってたんじゃないか。「靴下を脱いで水鏡に写った自分の姿を見て泣くマニ」の絵とか、いますぐにでも描いてみたいけれど。

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「当事者性のない人間は何も解決できない」という話である。

アリラはシャルが何気なく話したベルゼーグルの窮状に心を痛め、自分に何ができるだろうと考えて魔法の力で魔人(ベルゼーグルの人々が信仰していた)を呼び出す。だがアリラは「どうやって魔人にベルゼーグルを救ってもらうか」については何の目論見もなかった。

「だから」、と言うべきである。だから、呼び出された二人の「魔人」、宮部ユコと夏野エリは、ベルゼーグルの過酷な現実を前にしても、いったい自分たちが何をすべきか、さっぱり分からなかったのである。ここで、ベルゼーグルの現実に対するアリラの「当事者性のなさ」と宮部さん・夏野さんの「当事者性のなさ」は入れ子というか因果関係にある。アリラの使った魔法の力はユコとエリに対して「戦いを終わらせろ」「関わるな」と二つの矛盾した呼びかけをするが、それはユコとエリを呼び出したアリラの心の中に「魔人には戦いを終わらせることができるはずだ」という確信がなかったからだろう。

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ベルゼーグルの現実はどんどん過酷さを増し人々は血を流し命を落とし村は焦土と化すが、宮部さんと夏野さんはどうあっても当事者性を獲得できない。傍観者に徹しようと決めたわけでも、ただひたすら元の世界に帰ることだけを願ったわけでもないのだが、とにかくユコとエリは当事者性を獲得できない。なぜなのか、どうすればいいのか、を考えることに意味はあると思うのだけれど、つきつめて考えれば、二人を呼び出したアリラにベルゼーグルの現実に対する当事者性がなかったから、としか言いようがない。魔法という大きな力を、アリラがまちがった方法で使ってしまったから、としか言いようがない。「ユコとエリのせいじゃない」、という言い方に釈然としない人たちはいると思うのだが、ぼくは思うのだ、人間が実際に生きることのできるコンテキストというのは限られている、と。アリラがアリラ自身のコンテキストから離れて生きることができなかったように、宮部さんと夏野さんも自分たち自身のコンテキストから隔絶したベルゼーグルでそれこそ「魔人として」大活躍できるものではない。それを求めるのは、リアルな人間にとっては酷な話だ。この物語がていねいに描き出しているのは、その「リアルさ」だ。

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ではどうすればいいのか。「ベルゼーグルのために」というのではなく、宮部さんと夏野さんは、「いま」どうすればいいのか。

「私たち自身にとって当事者性とは何か。」ベルゼーグルの現実に対する当事者性は獲得できないとして、じゃあ自分たち自身が現に獲得している当事者性、自分たち自身が現に受け入れて生きているコンテキストとは、その上に確立された当事者性とは何なのか、という問いに、ユコとエリは戻っていくしかなかったし、そのことを認めることは、やっぱり自分たちは元の世界に戻るしかない、ひとときなりとも一緒に生きたベルゼーグルの人たちを捨てることになるかもしれないけれど、やっぱり私たちは私たち自身の当事者性が確立された世界に戻っていくしかない、ということを認めることでもあった。

今まで意識したことのなかった、自分たち自身の当事者性。「ベルゼーグルの現実に対する当事者性を獲得できなかった」という後ろめたさを超えて、ユコとエリはそれこそ「絶叫する」のだ、「自分たち自身の当事者性とは何か」という問いの答を、神殿の石組を崩しながら。

するとそこに、アリラが現れて二人を元の世界に戻す。ユコとエリに向かって、二人が何かを解決・達成してくれたことに満足し安堵したような微笑を浮かべながら。

……? アリラは、「魔人さま」を呼び出したことを通して、最終的に何を達成したというのだろう?「魔人さま」はベルゼーグルを救えなかったというのに。

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最終話の冒頭で、アリラの独白がある。そこで彼女が言うのは、彼女が魔人を呼び出したのは、シャルの涙と血が流れることを止めたかったからだ、ということだ。

ユコとエリが自分たち自身の当事者性に立ち返ったとき、アリラもまた、自分自身の当事者性に立ち返ることができた、そういうことだろう。ではその当事者性って、何なのか。

アリラは、シャルが好きだった、ということだ。

アリラは、ベルゼーグルのために心を痛めたわけではなかったのだ。アリラはただ、ベルゼーグルの窮状を語るシャルの曇った顔に心を痛めた、ただそれだけのことだったのだ。

「それだけのこと」でよかったの。

アリラが自分自身の当事者性を獲得して、この物語は終わる。最後の最後がレビアンの弔いなのも、やっぱり当事者性の問題だ。「ひとは、自分の当事者性の中で生き、そして死んでいくしかないのだ」ということだ。

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『ストレンジドーン』というアニメが「当事者性」という問題をテーマにしたこと(意図してであれ結果的にであれ)をどのような文脈の中で理解すべきなのか、西暦2000年という公開年をどう理解するのか、あるいは前後するアニメ作品との関係をどう読み解くのか、といったことはぼくの手には余る。

ただ、このアニメを2016年のいま観て「この作品のテーマは当事者性なのだ」とぼくが思う、というのは、この作品が公開されてから今に至るまでの時間の流れの中で、いろんな方々がさまざまな方法で「当事者性」という問題を考え続けてきた、その恩恵によるのだと思うし、そう考えたときあえて指摘しておきたいのは、このアニメが扱っているのは、「当事者性」という問題の「出発点」だということである。「ユコとエリはいかにしてベルゼーグルの窮状に対する『当事者性』を獲得するか」という問いに答えることに、この作品は失敗しているけれど、その失敗を非常にリアルに描くこと(「すでに獲得した自分自身の当事者性に戻っていくしかない」というラストも含めて)には大成功していて、それがこの作品の価値であり魅力である。そういう「当事者性」という問題の「出発点」を描いた作品をいま非常に魅力的で興味深い作品として観ることができるのは、ぼく自身がというよりも時代が、さまざまな契機を経て、「当事者性」という問題を深く掘り下げてきたからなのだろう。

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「当事者性」という言葉以前に、いわば「流行った」言葉として、「共感」という言葉があったように思う。「共感」を通して人々がさまざまな問題にコミットすることで問題は解決されていくのだ、というイメージだろう。

たぶんいま、社会問題を考える上で、そんな甘っちょろいことを言う人はいないだろうと思う。当事者性を欠いたところで共感だけで、たとえばエリがベルゼーグルのために何かができただろうか?「当事者性を欠いているところで共感だけが機能することはない」、たとえばそういうことをリアルに描いてみせるだけでも、この作品が公開された当時は意味があったのではないか。

(2016年12月)

涼宮ハルヒの消失

I

「ツタヤ」からDVDを借りて、『涼宮ハルヒの消失』を観た。

このとっても逐語訳的なアニメを観て、ぼくははじめて気づいたのだ、キョンの心の中にはSOS団やハルヒに対して、こんなにアンビバレントな感情があったのか、と。

ぼくはずっと「キョンの心は決まっていた」と思い続けてきた。それもまちがいではない。キョンは自問自答に対して「解りきったことを訊いてくるな」と答える。だが、ナガモンが突きつけた選択肢に直面するまで、キョンは「いつもブツブツ言ってばかり」の自分に向き合ったことがなかったのも事実なのだ。

このアニメはキョンがそのアンビバレンツを乗り越えるプロセスをとっても手間暇かけて描き出すけれど、実はそれは原作に書いてあることを逐語訳的に映像化したに過ぎない。このアンビバレンツが、実は『消失』という小説のテーマだったのだ。『消失』とは「キョン自身がSOS団やハルヒに対する自分のアンビバレンツを、ナガモンの暴走を契機に、乗り越える」というお話だったのだ。

それに気づいてはじめて、ぼくはジュブナイルとしての『涼宮ハルヒの驚愕』という作品が何を描いていたのか理解できた。『消失』でキョンはアンビバレンツから抜け出す一歩を踏み出したに過ぎない。彼がSOS団とハルヒのすべてを心から受容できると確信するためには、あの『驚愕』前後編が必要だったのだ。

だから『驚愕』は、世界と自分を受容するのに四苦八苦するという状況を抜け出した大人が読むには、ちょっと退屈な作品だったのだ。

II

映像になったものを見て、はじめてその意味が胸にぐさあっと突き刺さってくるということがある。

病室に入ってきたみくるんが意識の戻ったキョンを見て泣き出すシーン。小説ではさらっと流してしまうけれど、アニメで見ると息の止まるようなシーンである。この瞬間に至るまで自分の目の前で起こってきたことの深刻さの前に、子供みくるんは自責の念で押しつぶされそうになっていたはずなのだ。

もうひとつ。改変後のナガモンにはじめて文芸部室で会ったときのことを、キョンはこう書いている。

長門は立ったままだった。そんなに気になるのか、俺をずっと眺めていたようだ。しかしこちらが顔を向けると、すかさず視線を床に落とす。注意深く見れば頬のあたりがまだ淡く色づいている。ああ……長門。これはお前ではないんだな。お前が顔を紅潮させて困ったように目を泳がすことなんてないものな。

小説で読むと、単に内気さの表現くらいにしか思わない。だがこの姿をアニメで見ると、このびくびくおどおどは内気さとは別のものだ。これは、良心に深い呵責を感じている人の姿だ。つまりナガモンは、自分が世界を改変してしまったことを、キョンが怒っているのではないかと思って、びくびくおどおど怯えていたのだ。

ナガモンは最初から良心に深い呵責を抱えていた。だからこの話は最後に「わたしの処分が検討されている」「くそったれと伝えろ」「伝える ありがとう」という会話で終わる。実はぼく自身は、この話の中でのナガモンの心の動きを少し違うふうに理解してきた。だが、このアニメで描かれている姿の方が、原作の「ふつうの」理解なのかもしれない。

III

最後にナガモンがキョンを訪ねて来るのは病室じゃなかったっけ?と思いながら観ていたのだが、「良心の呵責を抱えていたナガモンがキョンに赦してもらいに来る」というシーンなのだと考えると、「寝ているキョンをナガモンが立って見下ろしながら会話する」というのは位置関係としてはふさわしくない、と思うようになる。

「伝える ありがとう」と言ったとき、ナガモンはキョンを見つめていたのか、それとも目を落としていたのか、さあどっちに描くだろう?と楽しみにしたところ、アニメはどちらにも描かなかった。「これは、観る人の心に任せるべきシーンだ」と、アニメを作った人たちは思ったのだろう。

*

ぼく自身はこれまで「寝ているキョンを見下ろしながら、ナガモンが『わたしの処分が検討されている』と宣言するシーン」というものに違和感を覚えてこなかった。

なぜか。ナガモンは断固自分をさばくつもりでただそれをキョンに伝えに来ただけだ、とぼくは思っていたからだ。そしてナガモンはキョンに赦されて、愕然としたと同時に猛烈にうれしかったのだ。

ぼくはこのシーンをずっとそういうふうに思ってきた。だが、それはぼくがクリスチャンだからかもしれない。

IV

サントラを買わなくても、サティを聴けばあのアニメを思い出すことができる。

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改変された文芸部室にSOS団が揃い、パソコンが起動して「緊急脱出プログラム」のメッセージを表示し始めたとき、ぼくは泣き出してしまった。

(2016年08月)

同和と銀行

開設準備室の時代から三和銀行の学園前支店にいた父が淡路支店の次長になったのは昭和54年か55年のことである。近鉄沿線に住んでいた父にとって阪急沿線の淡路に毎日通うことは負担になったからか、父は淡路の駅前に四畳半の下宿を借りた。その下宿から父が引き上げてきたのがおそらく昭和57年の春だったから、父は『同和と銀行』の一方の主人公、岡野義市氏の前任者として、2~3年ほどの間「小西のおっさん」(『同和と銀行』のもう一方の主人公、小西邦彦氏のことを父は当時こう呼んでいた)の相手をしていたことになる。

ぼくが母づてに聞いた「小西のおっさん」の話はそんなに多くない。「口座を開かせてくれ」という「小西のおっさん」の希望を「三和がヤクザに口座なんか開かせられるか」と頑なに断ってきた、という話ぐらいである。この「口座」とは当座預金の口座のことであるが、『同和と銀行』を読むと最終的には当座預金の口座を開かせるよりもっとひどいことになっていったのが分かる。ちなみにぼくはこの頃「\200,000,000」(2億円)と書かれた何かを見ている。2億の金を一時に右から左に動かせる人間がこの世にはいるのだと驚いたものだ。

父はそのあと大阪府下で支店長を3行務めた。岡野氏と同じ四国の商業高校出だった父にとって支店長を3行務めるというのは異例なことだったらしい。そのあと父は「ダイヤモンドリゾート」に役員として送り込まれる。三和が融資するに足る会社であるか、融資するに足る会社にできるか、というのを見極めるためだったらしいが、父の目には全然無理に見えたようである。それで本店にそう訴えたのだが、バブル真っ盛りの三和は諦めがつかなかったのか、父はしばらく「ダイヤモンドリゾート」にいた。ここで父は「ダイヤモンドリゾート」の会長から下へも置かぬ歓待を受けたが、大酒飲みで気が荒かったにもかかわらずいたって潔癖な性格だった父にとってこういう杜撰な会社(いや、杜撰だったから左前になったのだろう)に居続けることはとてもストレスになったようで、当時50代の前半であったにもかかわらず、父は歯が全部抜けてしまった。結局三和は撤退を決め父は「ダイヤモンドリゾート」から引き上げるだが、そのあと「ダイヤモンドリゾート」の買収に乗り出すのがこれまた「小西のおっさんと仲間たち」なのである

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息子は銀行員を継がなかったが酒飲みは継いだ。それでその夜も酔っ払ってラーメン屋に入り『週刊現代』を読んでいて、『同和と銀行』の広告を見つけるのである。「アマゾン」で注文して母に届くようにしたところ、母はこの本を「3日で読んだ」そうだが、息子はその本を3ヶ月ぐらい手に取ることができず、手に取ってからも読み切るのにまる1週間かかった。

昭和の、大阪の、裏社会っていうのではなく日常的に転がっていたダークサイドを、冷静に、平明に、描き出した作品である。指導力のない行政、権威を傘に着る警察と税務署。まっすぐなものなど何ひとつなかった昭和の大阪で、何かをまっすぐに進めようと思ったら、「小西のおっさん」のようにカネと暴力を自由にできる人物の力が必要だったのである。そして「小西のおっさん」は地元の名士になっていく。強欲な産業界、カネの欲しい政治家、パトロンの欲しい芸能人、みんなハエのように「小西のおっさん」にたかるようになる。そうした「小西のおっさん」の活躍を影で支えてきたのが三和銀行だったとこの本は言う。「小西のおっさん」の仕事ぶりは当時の大阪ではふつうのビジネスだったのだ。実際、当時の大阪の雰囲気を知る者にとって、この本の第6章まではむしろ痛快にさえ思える。

やがてバブルの時代が始まり、銀行が「小西のおっさん」を利用するようになる。銀行自身が犯罪的なマネーゲームを繰り広げ、警察に目をつけられるようになると「小西のおっさん」に頼んでもみ消しを計ってもらう。経済ヤクザと同じようなことを銀行自身がやっていた時代であり、三和銀行はすでに「三和がヤクザに当座預金の口座なんか開かせられるか」と言っていた父の思っていた/信じていた銀行ではなくなっていた。父が「ダイヤモンドリゾート」に出向していたのと同じ時期、父の同期でパチンコ屋に役員として送り込まれることになり「どうして三和がパチンコ屋に……?」とたいへんショックを受けていた行員の方の話を聞いたことがある。地元経済に対して責任を持つのが銀行なのではないかと信じてきた「ピープルズ・バンク」の行員たちにとって、バブルの時代の三和銀行の変節は決して何でもないことではなかったのだ。

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そして三和がUFJになり三菱銀行に吸収合併される日が来る。三菱東京UFJ銀行ができるのが平成18年の正月で、「小西のおっさん」が逮捕されるのが平成18年の5月であるというのは決して偶然ではなかろう。三菱の首脳の中に三和の暗部というか恥部を粛清したいと考えた人たちがいて、この際「小西のおっさん」と一緒に三和の連中もブタ箱にぶち込んでやればいいんじゃないかぐらいに思ったのではなかろうかとぼくは勝手に想像する。

というのはこの年、三菱東京UFJの本部から父宛に電話がかかってくるのだ。「小西氏から利益供与を受けたことはありませんでしたか」というのが質問の内容だった。とうの昔に退職していた父はその頃すでに骨髄異形成症候群にかかって入院しており(年末には結核を併発して隔離病棟に移される)、電話に出たのは母だった。母は弱っている父にそんな話を聞かせられないと思い、「いいえ、受けたことはありません」と自分で答えた。実際、父は「小西のおっさん」のような人種と関わることを銀行員としてたいへん不名誉なことだと思っていたタイプの人間なので利益供与を受けるなど論外だったろう(というか父は岡野氏と違い「小西のおっさん」と親しくなることはなかった)。

三菱東京UFJの本部はきっと三和の本部よりコンプライアンスに対してずっと神経質だったのだ。ぼくは三菱銀行という会社の内情を知らないが、いま三菱重工のおこぼれを頂戴しながら暮らしていて、重工の人たちがコンプライアンス違反のような、自分で失点を稼ぐ間抜けな連中を腹の底からバカにしているということは知っている。そもそも、優秀な人たちの集まる組織というのは失敗に対しては不寛容なものだ。それで、三菱銀行の人たちが、ヤクザとつるんでバブルに浮かれた浅はかな三和の連中に対して「死ね」ぐらいのことを思ったとしても不思議ではないようにぼくは思う(あと、企業が合併した際、消滅会社の社員は存続会社からそれはそれはひどい仕打ちを受けるらしいとも聞く。三菱東京UFJの場合どうだったかは知らないが)。三菱東京UFJができたその年に「小西のおっさん」が逮捕されたのはそういう背景があるのではないかとぼくは勝手に想像するが、そのことに対する傍証になるかもしれない記事反論になるかもしれない記事をともに「ウィキペディア」から引いておく。

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初めて東京で仕事をした時「ここはなんて役人の強い街なんだろう」と思ったものだが、それに慣れてしまうと、この『同和と銀行』に書いてあるような大阪の、土地区画整理事業や同和行政に行政自身が民事介入暴力の助力を請うといった状況は当然おかしいのだと思うようになる。いまの大阪人がそういったことをどう考えているのかは分からない。この物語に描かれていることが高度成長からバブルの時代という歴史的な状況の中で生じたものでいまの大阪はこうではないということになっていればいいと思う。

(2010年6月)