カテゴリー「(キリスト教関連)」の9件の記事

善と悪

2017no1

母の知人に「エホバの証人」の信者さんがいて、我が家のポストにはその方が定期的に『ものみの塔』を投函して下さる。母はその方からのお手紙だけ一瞥して『ものみの塔』は読まずに捨てている。

その『ものみの塔』に、ぼくはたまに目を通す。最新号は「聖書の楽しい読み方」というタイトルで、『新世界訳』の宣伝以外の部分はふつうのクリスチャンのデボーション(devotion. 祈りと学びと黙想をひっくるめた宗教行為のこと)と同じようなことが書いてある(もっとも「エホバの証人」はイエスさまを人間とみなす点で一貫している)のだが、中身を読み終わって冊子をひっくり返すと上掲のような記事が目に入った。

神様が苦しみを引き起こすのですか

神が世の中に悪や苦しみをもたらすことは決してありません。……苦しみの主な原因は、「世の支配者」である悪魔サタンにあります。

「ああ、エホバの証人はやっぱりエホバの証人やなあ」と思う。こんなの、キリスト教じゃない。

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「この世には善なる支配者と悪なる支配者がいる」みたいな善悪二元論はキリスト教ではない。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴16:4、改)

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ロマ11:36)

世界観の話だけをするなら、キリスト教は善悪二元論ではなく唯一神による一元論である。「では悪を作られたのも神ですか」ときかれたら、単にことばの上だけの話をするなら「そうです」としか言いようがない。

「あなたが善を行うときあなたは神の被造物で、あなたが悪を行うときあなたは悪魔の被造物ですか?あなたはひとりの人間として神に作られたのでしょう?また雨が田畑を潤すとき雨は神の被造物で、雨が土砂崩れを起こして家を押し流すとき雨は悪魔の被造物ですか?雨は同じ雨でともに神が備えられたものでしょう?」

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「なにより、神はあなたが善を行うときのみ愛して下さり、悪を行うときは愛して下さらないのですか?神はあなたが悪を行うときにも善を行うとき同様愛して下さったからこそ、あなたをイエス・キリストの十字架の血によって罪から贖い出し(買い戻し)て下さったのではなかったのですか?」

たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(Iヨハ2:1-2)

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Iヨハ4:10)

善をも悪をも行うことのできる存在としての人間を、神はそのまま愛して下さる。そして、私たちが互いに愛し合うのも、互いに善を行う限りにおいてではない。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロ3:13)

神学的につたない教会は現実には正統派のキリスト教会にもそれなりにある。だが「あなたは善を行う限りにおいてのみ神と人とに愛される」と宣言するような教会に、偽善者とならずに所属することは、ふつうの人には困難だろう。神が唯一の神・唯一の造り主であることと、神が悪を行うあなたも愛して下さること、そして互いに愛し合い赦し合うことを「掟」として求められること、とは一体のことである。

人間が罪深い以上、善悪二元論は愛を不可能にし、人を神から離れさせ、神に反抗する者へと引き寄せる。それは、キリストの道ではない、たとえそれが愛を動機として人を善い行いに駆り立てる、つまり建徳的である、ように見えても。

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「キリスト教が唯一神による一元論だとしたら、善悪とは相対的なものに過ぎないのですか」という質問があるだろう。だが、善/悪、有益/無益、味方/敵といった概念の枠組それ自体を否定する箇所は聖書にはどこにもない。

「ではどこまでも悪でしかないもの、つまり絶対悪を、それでも神は作られたのですか」ときかれたら、神が「天地とすべて見えるものと見えないものとの造り主」である以上、ある人にとって絶対悪に見えるものもやはり神が作られたのだとしか言いようがない。

「それは、『ものみの塔』の言うとおり、『神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。』(ヨブ34:10、改)という聖句に反しませんか?」ときかれたら。「反しません」というのが答だが、この答に納得できるかどうかはその人が信仰というものを理解できるかどうかにかかっている。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロマ8:28)

「神を愛する」という意志とその実行を通して、私たちは「万事が益となるように共に働く」のを見る。善/悪、有益/無益、味方/敵といった概念は、概念として相対化されるのではなく、信仰という意志とその実行を通して乗り越えられるのである。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ8:28)

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先に掲げた『ものみの塔』には「苦しみはいつかなくなりますか」という問いの答として黙示録(「エホバの証人」では "Revelation" という英語の書名をそのまま「啓示」と訳している)を引いている。世界の枠組が人間の力でどうにもならない善悪二元論なら、神が終末的なさばきを通して二元論の対立に終止符を打つことによってしかこの世の苦しみはなくならない。

だがキリスト教は善悪二元論ではない、という話をした。私たちの目の前にある苦しみは終末を通してはじめて解決されるのではなく、私たち自身の信仰によっていま・ここで解決される。それが、クリスチャンの信仰である。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 (ロマ8:35,37)

「その『勝利』を、私たちはどこで見ることができますか」ときく人がいるかもしれない。「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ20:29)アーメン。だがほんとうは「その『勝利』を見るために、どうぞ教会にお越し下さい」と言うべきなのだ。教会が信仰の「勝利」を証言できていないから、ひとが教会に来ないのだ。

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ベネディクト16世は史上初めてテレビを通じて信徒などの質問に答えたローマ教皇になった。 2011年4月22日にイタリアのカトリック教会の番組に出演し、あらかじめ寄せられた質問のうち7つに応えた。そのうち日本の千葉県在住の少女から寄せられた東日本大震災に際しての質問「どうしてこんなに怖い思いをしなければいけないのか」には「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えが見つからない」と言いつつも「我々は皆さんと共にある」と応えた。

ベネディクト16世 (ローマ教皇) - Wikipedia #メディア露出

ある特別な出来事を前にして「いま私たちに臨んだ神のみこころはこうです」などと知ったふうな口をきくべきではない。だが大きなわざわいを前に「いま私には神のみこころが分かりません」という言い方をしてしまうのも、特に教役者としてはさびしいとぼくは思う。

信仰がある限り、つねに言い得ることがあるはずである。次の2つの聖句は表裏一体である。

まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタ7:11)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Iテサ5:16-18)

震災においても津波においても原発事故においても、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」というみことばは真実である。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。 (エレ29:11-14)

津波で家と妻子と職を同時に失った人に、あるいは原発事故で土地を失った人に、「いまあなたの遭った目について神に感謝しましょう」と言うことには勇気がいる。というかそれは、みことばの真実を「見ずに信じる」ことに殉じようと決めた教役者か、自分で実際にそのようして神による「勝利」を体験した信仰者でないとできないことである。

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 (ロマ8:38-39)

その神の愛を、神の愛による私たちの信仰の勝利を、証言するのが教会の務めである。ほんとうは。

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「神が何をどのように創造されたにせよ、神ご自身には善なる意志しかなかったし、人間が現実に善も悪も生きることができるとしても、神は人間に善なる意志だけを持って欲しいと願っておられる。」

善と悪についてキリスト教が信じていることをひとことで言い表せばこうなると思う。「それは聖書のどこに書いてありますか?」ときかれたら、「ロマ・ガラテヤ・Iヨハネを注意深く読んで下さい」という程度の答しかできない。これは、奥義なのだ。奥義だから、頭でだけ考えて「善なる神が悪を創造されたはずがない」と言って善悪二元論に陥るクリスチャンが、エホバの証人以外にも、たくさん現れてしまう。

「私は神に愛されているのになぜ神からこんな目に遭わされ続けるのか」ということを考え続けることを通してしか、この奥義を理解することはできない。そういう目に遭い続けた人々から学ぶことによってしか、この奥義を体得することはできない。

ぼく自身は、パスカルに出会わなかったら、この奥義を理解することはできなかっただろう。

神は理知よりも意志をととのえようと望まれる。完全な光は理知には有用であろうが、意志には有害であろう。

尊大を卑下させること。

(パスカル/前田陽一・由木康訳『パンセ』581番)

(2017年01月)

イエス・キリストを救い主として受け入れた方へ

ところで、イエス・キリストを救い主として受け入れ、生きて働く神の力を恵みとして受けたとき、もっと進んでそうした神の力とともに人生を送りたい、と望まれるかもしれません。そうすると、教会に行って洗礼(と堅信)を受け、いわゆるクリスチャンとして生きていくことになります。

では、クリスチャンとして生きていく中で最大のテーマは何かというと、これは「完全を回復される神の力を待ち望む」ことと同時に、「神の完全から遠く隔たった存在である現在の世界、被造物、そして人々の間で、愛・寛容・忍耐を育てること」になります。つまり「不完全な世界・被造物・そして人々を、そのままの姿で愛し受け入れ耐え忍ぶことを学ぶ」ことになります。

このとき、「神が創造のときにあった完全を回復して下さる」という期待からキリストを受け入れた心からすれば、一種裏切られたような思いを抱かずにはいられません。私たちは世界・被造物そして人々の不完全さによって深くそこなわれてきたからこそ、完全を回復して下さる神に希望を置いたのではなかったでしょうか? その神から「世界・被造物・人々の不完全さを愛し受け入れ耐え忍べ」と言われたら、「神は結局私たちに何をして下さるのだろうか、何もして下さらないのだろうか」と疑いの心を持たずにはいられないのではないでしょうか?

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ところが、この愛・寛容・忍耐にこそ、神の完全が存在します。理解すべきことは2つあります。

ひとつは、「世界・被造物・人々が不完全である以上、この世で神の完全を実現するために、神はそれら不完全なものを手段として用いるしかない」ということです。イエス・キリストにとって弟子たちがいかに不完全な存在であったかは福音書につぶさに書かれています。ですが、イエス・キリストの十字架と復活の証人として世界に最初の恵みを宣教したのはこの不完全な弟子たちでした。以来、神の完全は不完全な人々の不完全な行いを通して、少しずつではありますが実現してきました。不完全な人々は神の完全を「完全に」実現することはできていませんが、「何が神の完全であるか」については見失わずにいられたのだと思います。これは神が、その愛・寛容・忍耐によって、不完全な人々が不完全なやり方で神の完全を追い求めることをよしとして、不完全な人々をずっと助け続けて下さったからです。

もうひとつは、既成事実の問題として、「神がキリスト以来、不完全な世界・被造物・人々を愛し受け入れ耐え忍んで下さったからこそ、私たちもいまキリストを通して神の回復を体験することができるのだ」ということです。歴史的な出来事として人類が神にあからさまに反抗したとき、というのはあまり思いつきませんが(いつの世にも信仰は何らかの形で存続し続けました)、ひとつの国や文化の中で人々がキリスト教に対してはっきり敵対的な態度を取った場合でも、神がそれらの国や文化を滅ぼし尽くされることはまれだったかと思います。日本はローマ帝国並みに長い迫害の歴史を持つ国ですが、日本はその迫害によって神の怒りを招くより、迫害を耐え忍んだ人々を通して豊かに祝福されました。迫害を耐え忍んだごく少数の人々のために、神はご自分に背いた多くの人々を愛し受け入れ耐え忍んで下さったのです。そして、その恵みの果てに、いま私たちはキリストによる救いを得ているのです。

このように、神の完全は、愛・寛容・忍耐を通して回復されてきました。それは神の恵みにとって不可欠のものであり、聖書は愛・寛容・忍耐それ自体を神の完全の本質的要素だと教えています。そこで、神の完全が回復されることを待ち望むクリスチャンは、自分たち自身が愛・寛容・忍耐を生きることを目指します。もっともそれは、洗礼(と堅信)を通して神の霊を自覚的に受けてはじめて実行できることだと考えられています。いわゆる「博愛」を人間の力で実現できると、クリスチャンは考えません。それは人間の不完全さに対する悔い改めに反することだと聖書は教えています。

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ある人がキリストを救い主として受け入れるとき、それはその人が「神の完全を待ち望む」ことか「自分自身の不完全をそのまま愛し受容してもらう」ことかのいずれか一方に期待する場合がほとんどで、実際にクリスチャンになったときこの2つの矛盾するテーマを同時に満たせという課題に直面し、そこで「キリスト教は私の願っていたものではない」と思って挫折するというケースがしばしば見られます。「完全を待ち望む」ことに偏ればいわゆる「原理主義」に陥り(教条的な権威主義や不完全な世界との「聖戦」に明け暮れる)、「不完全をそのまま愛し受容する」ことに偏ればいわゆる「ヒューマニズム」に陥る(人間自身の努力で愛を実現できると信じる)ようになるでしょう。

ここでも重要なのは「生きて働く神の力」に直接触れることです。神の豊かな愛・寛容・忍耐によって、自分自身の人生に神の完全が回復されるのを体験するとき、不完全さの受容と完全の回復とがひとつのこととして理解されると同時に、それは人間の実現できることではなく、ただ「生きて働く神の力」によってのみ可能なのだと理解されます。

また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。……愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。 (IIペト3:15,17)

こうした話は、イエス・キリストを救い主として受け入れようとする段階の方にするには少し先走り過ぎていますが、信じた先に何があるのかを正確に伝え、陥りがちな落とし穴を避ける方法がちゃんとあるのだと説明することは、信仰の選択という人生において重要な決断をしようとされる方に対して必要なことだと思いますので、少し書いておきました。

(2016年12月)

イエス・キリストを救い主として受け入れることをためらっている方へ

イエス・キリストを救い主として受け入れるところに開かれるものは、生きて働く神の力によって自分が変えられるという体験です。この体験は人によっては超自然的で劇的な姿を取りますが、ほとんどの人にとっては生活の中で体験する喜びや試練を通して少しずつ進行していきます。信仰を持つまで体験できなかった喜びを通して神の恵みを体験するという幸福な例もありますが、残念ながら多くの場合、信仰を成長させるものは試練です。そこで、聖書の中で信じる者が試練について知っておくべきことを2つ挙げておきます。

わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ロマ5:3-4)

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (Iコリ10:13)

試練や喜びや不思議な体験を通して、生きて働く神の力を体験する中で、神の恵みに感謝しつつ、神が私たちに与えようと用意して下さるものにふさわしくないものを自分が持っているなら、それを悔い改めによって手放していくこと。キリスト教とはこうした営みの積み重ねであって、世に「キリスト教思想」と呼ばれるものは、こうした営みのごく一部を切り取って言葉で表現したものに過ぎません。それは、ある人と実際に親交を持つことと、その人と親交のある人の体験談を聞くこととの違いだと言えます(その体験談のほとんどは、体験者の「自分語り」に過ぎないでありましょう)。 生きて働く神の力を体験するために必要なのは、ただ神ご自身に期待することだけです。

イエス・キリストを救い主として受け入れるか否かの決断は、「生きて働く神の力」と言われてそこに期待を抱くか、あるいは恐れや蔑みを抱くかにあるかと思います。恐れにも、神にさばかれる恐れもあれば、自分の意志と異なる原理で働く「神の霊」を受けることによっていわば「暴走」してしまうことに対する恐れもあります。また、唯物論的な世にあって、「生きて働く神の力」という言葉に対する蔑みが心に起こるのは致し方ない部分もあるでしょう。もし、恐れながら、あるいは蔑みながらも、心のどこかで神に期待する気持ちがあるなら、とりあえずキリストを救い主として受け入れてみられることをお勧めします。そのとき「主よ、私の心にはあなたに対する恐れや蔑みがありますが、それでも私はあなたに期待します」と正直に告白するなら、神はその告白を顧みて下さるでしょう。

(2016年12月)

イエス・キリストを救い主として受け入れるお祈り

1.回復

それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたし(引用注:イエス・キリスト)への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。 (使26:18)

神がイエス・キリストを通して私たちの人生の上に実現されることは、回復です。創造において完全だった世界、完全だった被造物、完全だった神と人との関係は、アダムの罪を通してそこなわれました。神はそれらを、イエス・キリストを通して回復されます。

同様に、私たちひとりひとりの人生にもありながら私たち自身の罪によってそこなわれていた神の完全な計画も、神はイエス・キリストを通して回復されます。

二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」

そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。

それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」 (ルカ7:20-23)

2.恵み

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、…… (エフェ3:20)

私たちは、神の力によって回復されます。これを神の「恵み」と呼びます。私たち自身の力によるのではありません。私たちは何がどうそこなわれているのかさえ分からないまま生きています。私たちの人生を回復する力も、その回復が何であるかを知る知恵も、ともに神からもたらされます。

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 (ロマ12:2)

3.信仰

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。  (ヘブ11:1)

神の「恵み」を体験して、私たちは自分に起こったことが回復であること、そしてそれが神ご自身のなさったことであることを受け入れなければなりません。自分の体験を、偶然の産物ではなく神の「恵み」として受けとめ神に感謝すること、それを「信仰」と呼びます。

神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。 (IIコリ1:10)

4.悔い改め

「……だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」  (使2:36-39)

神のもたらされる回復を「恵み」として「信仰」をもって受け入れるとき、神がすでに実現された、またこれから実現される回復と比べて、自分がそれまでしがみついてきたものには価値がないことをさとるようになります。こうした「私に属していながら神の回復と相容れないもの」を否定し捨て去ることを「悔い改め」と呼びます。神の回復を受け入れるに際して、「恵み」への感謝と「悔い改め」とは信仰の表裏一体、車の両輪です。

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。 (フィリ3:8)

5.救い

まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 (ヘブ9:14)

神による回復がなければ私たちは滅びてしまったであろう、という意味で、神による回復のはじまりを特に「救い」と呼びます。この「救い」は歴史上、イエス・キリストの十字架の死と復活によってなし遂げられました。イエス・キリストが血を流して死なれたことと、死者の中から復活されたこととによって、歴史上の「救い」は実現しました。イエス・キリストが歴史上どのようにして「救い」を実現されたかという情報を「福音」と呼びます。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 (Iコリ15:3-5)

6.告白

看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。 (使16:29-32)

私たち個人の人生に「救い」をもたらすものは「イエス・キリストは救い主である」と私たち自身が信じ告白することです。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 (ロマ10:9-10)

7.新生

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 (IIコリ5:17)

「信仰」によって信じる者に神の完全が回復されるとき、それを「新生」と呼びます。聖書は信じる個々人の人生に起こることを、言葉としては「回復」ではなく「新しい創造」と呼んでいます。

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 (ガラ6:15)

8.イエス・キリストを救い主として受け入れるお祈り

創造のとき、世界と被造物、特に神と人との関係に存在した神の完全は、イエス・キリストを通して神ご自身の力によって回復されます。この「恵み」を「信仰」によって受けとめ、「悔い改め」てイエス・キリストを「救い」主として「告白」するとき、私たちは神の力によって「新生」します。

これらのことを信じ、また信じ切れないまでも「これらのことが真実でありますように」と心の片隅に望むならば、以下の「イエス・キリストを救い主として受け入れるお祈り」を告白して下さい。

「天の父なる神さま、私はいま、私たちの罪のために十字架で死なれ三日目に復活されたあなたの御子、イエス・キリストを私の救い主として受け入れます。どうか御子の血によって私の罪をおおい、私の人生、そして私とともに生きる人々の人生に、あなたの回復をもたらして下さい。どうか私の心を新たにし、何が神さまの御心であるか、何が良いことで神さまに喜ばれ、また完全であるかをわきまえる者として下さい。私たちの内に働くイエス・キリストの十字架の血の力が、私とともに生きるすべての人々との交わりの内に働きますように。御子イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」

(2016年12月)

「所属教会の選択肢」という観点から教派・教団の多様性を考える

※キリスト教関連の作品は別サイトにまとめています。この記事もこちらでお楽しみ下さい。

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(以下に一部をご紹介)

アメリカ陸軍のチャプレンだったマーリン・キャロザーズがIテサ5:16-18の真実をあかしした本(『獄中からの讃美』)を出したところ、それを読んだ全米の人々からさまざまな手紙がキャロザーズ師のところに送られてきた。その反響をまとめて本にしたのが『讃美の応答』という本なのだが、そこにこういう話が出てくる。

教会で指導的な役割を果たし家庭では三児の母だった姉妹(女性のクリスチャン)がいたのだが、夫婦生活(隠語)がうまく行かなくなり問いただしたところ実は夫がホモセクシャルであることが分かった。受け入れられなくて離婚してしまったが、そうすると教会の教役者も信徒もいっせいに「離婚は罪だ」といってその姉妹を攻め立てる。「私はどうすればよかったのか、そしてこれからどうすればいいのか」と、その姉妹はキャロザーズ師に相談の手紙を書いた。

その返事として、キャロザーズ師はこう書いている。

あなたに言いたいことがあります。今すぐに教会をやめなさい。あなたの受けた心の傷は時がいやしてくれます。愛をもってあなたを受け入れてくれる教会があります。今、あなたにとって必要なのは愛です。心にとめておくべきことは、イエス様はあなたを愛して、いつもあなたのそばにおいでになるということです。イエス様を信じなさい。そうすれば失望に終わることはありません。

(p.227「断絶」)

はじめて読んだ時には驚いたものだ。信仰の選択肢として「移るべき先の教会を決めずにとりあえずいまの教会をやめなさい」とアドバイスする教役者って、たぶん日本にはいないだろう、なぜそうなのかはともかくとして。

「ある個人的な選択を他人が教理(の権威)をふりかざして妨害する」というのは、信仰の観点以外から見れば、いわゆる「パワハラ」なのだと思う。キャロザーズ師が言っているのは、「信仰以外の観点からおかしいと思うことは信仰の観点からもおかしいのだ」ということ(つねに真実とは言えないけれど)である。

ここでキャロザーズ師が「今、あなたにとって必要なのは愛です。」と言っていることばの意味って、クリスチャンじゃない人に分かるだろうか、そしてクリスチャンはどう理解するだろうか。これは「あなたの選択が正しかったとしてもまちがっていたとしても、あなたはそれを生き抜かなければならないし、それを生き抜くところにだけあなた自身がいるのだということを、あなた自身も、そしてあなたとともに生きてくれるすべての人も、理解し受容しなければならないのだ」ということである。その上で、どう考えてもまちがっていたのだという結論に至ってしまうなら、その時は悔い改めればいいのだ、「自分の選択を生き抜く」というのはそういう悔い改めを含む話なのだ、ということである。そういう「答のない選択を生き抜くことの理解と受容」を「愛」と言うのだと分かれば、そこに続く「心にとめておくべきことは、イエス様はあなたを愛して、いつもあなたのそばにおいでになるということです。イエス様を信じなさい。そうすれば失望に終わることはありません。」ということばの意味は素直に分かると思う。自分自身と周囲の「理解と受容」の程度に応じて、神は最適解の全容を明らかにして下さる。「最適解が分かっているなら出し惜しみせずに教えて下さい」と、はた目に理屈だけで考えれば思う。だがそれを実際に生きる人間(本人と周囲)がそれを理解し受容できなかったとしたら、最適解の最適性に意味はない。自分で自分を愛さなかったら、そして自分を愛してくれる人に出会えなかったら、イエスさまが自分を完全に愛して下さることを発見することに意味はないのである。

そのために一歩を踏み出すことに比べれば、所属教会をやめることが決して大きいことだろうか、という話である。

(2016年05月)

カトリックの信仰

※キリスト教関連の作品は別サイトにまとめています。この記事もこちらでお楽しみ下さい。

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(以下に一部をご紹介)

そういう「第十四章 聖霊」の中でもっともエッジだと思う箇所を引いてみる。

しかしプロテスタントが信仰をもって単に信頼または愛の関係にして、真理の承認にあらずとするは、対カトリックの理論に過ぎない。事実信仰を単なる本能的衝動と思うクリスチャンは、存在しないと思う。しかるにプロテスタントがかかる矛盾を犯しても信仰から知的要素を排斥せんと欲するは、信仰に知的内容を許す瞬間に、教権を肯定せねばならなくなるからである。一方クリスチャンとしてはキリスト教を唯一の道とせねばならず、さりとて権威を認めてはカトリックになる。カトリック教会を認めることは、事実は無視しても論理は矛盾しても、信仰は真理の承認にあらずと主張しようとの改革者の論理が、今日も禍しているのである。それは哲学を革新すると称して、われと世界とを主観の裡に閉じこめてしまった近世思潮の宗教的一面である。近代人は未だに「人の義とせらるるは信仰のみによる」と称したルターと、デカルトの「Cogito ergo sum」の呪詛から解放されていないのである。

(pp.647-648)

岩下神父がなぜこういうことを書くかについて、字面で分かったような気になりたければ、稲垣良典という人がこの本の巻末に解説を書いている(クリスチャンの目にはあんまりいただけない感じの解説なのだが、スコラ哲学研究の大家と呼ばれる人にしてこんな程度のキリスト教理解で仕事ができるのだろうか)。

……岩下は留学中に神学生として神学を本格的に学び始めた時に「近世哲学的教養を心窃かに誇りとしていた生意気な私は……現代人の誇りなる全近世哲学が(神学との関係において)単なる質問者の地位を占むるにすぎぬのを発見して驚」いた。その役割は、真理の認識という観点から言えばかつてアウグスティヌスが新アカデミー派について評したように「門前において抗弁するかの如き懐疑論」のそれに過ぎないことがわかった、というのである。岩下はこの時「狐にばかされた様な屈辱を感ぜざるをえなかった。然しこの一事は正にソクラテスの「己れを識れ」であって、寧ろ真に哲学することの第一歩になった事を感謝している次第である」と述懐している。つまり岩下がそれまで学んできた近世哲学の限界というか根元的な欠陥を見せつけられたことが彼自身の生涯を通じての哲学的探求の出発点となった、というのである。

(pp.934-935)

「信じるひとりひとりが十字架を仰いで回心し、聖書と聖霊によって導かれる」ということは使徒以来キリスト教の本質的体験だろう?と考える福音主義者にとって、「そういう救済論・聖霊論は信仰を自我の観点から捉えたがる近代の流行に過ぎないのだ」という言い方をされてもにわかにはうなずきがたい。だが「そうなのかもしれない」という気もする。要は、その救済論・聖霊論で教会論が破綻なく打ち立てられるのか、ということだ。

言葉につまる。というのは、思い当たる体験を、ぼくは実際にしているからだ。

(2016年05月)

はじめてのバルト

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(以下に一部をご紹介)

聖書を読み慣れてしまうと、神の民が神に反逆するのはあまりに毎度のこと、そして聖書の歴史(あるいは「教会の歴史」)を通じてずうっとのことなので、神はものごとを最終的にはさばきに向かって構成しておられるかのような神学を持ってしまう(いわゆる「キリスト看板」の「死後さばきにあう」とかいうのはその顕著な例だろう)のだが、それは「創造」「契約」そして「和解」に関するキリスト教神学(簡単に言えば「聖書理解」)としてはまちがいである。イエス・キリストの福音(十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇り、全能の父である神の右に座しておられる)が持つメッセージとは何かといってぼくがいつも考えるのはエゼ18:31-32なのだが、この聖句こそ、神のご計画の到達点がさばきではなくむしろ「新しい創造」(ガラ6:15)であることをあかししている。

「……お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と主なる神は言われる。

あらゆる背きに対して用意されているのはさばきではなく「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」という御声である。さばきたければさばかれる方がはるかに簡単であろうのに、神は「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」と言われる。それは神が私たちを、私たちひとりひとりが生まれてくる前から、深く愛しておられるからである。

私たちが生きているのはさばきへの道ではなく「新しい創造」への道である。聖書を全巻通して読んでそれを見出すこと、それが正しい神学、正しい聖書理解、正しいキリスト教である。聖書の最後は「ヨハネ黙示録」だが、あれだって実はさばきの書ではなく「新しい創造」の書である。

(2015年08月)

新版・自由祈祷入門

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(以下に一部をご紹介)

問:この記事の目次を掲げて下さい。

答:以下のとおりです。各章の見出しは聖句の引用ですが、それだけでは各章の内容がよく分かりませんので、ひとこと説明を付け加えました。

  1. その1「愛がなければ、無に等しい。」

    全体の導入です。「祈りに必要なものは何ですか」「なぜ祈りを学ぶ必要がありますか」「クリスチャンは聖書に対してどう向き合うべきですか」「祈りを学ぶ難しさをどうやって乗り越えればいいですか」といった質問に答えます。

  2. その2「御国が来ますように。」

    クリスチャンの祈りの基礎として「主の祈り」を学びます。特に、私たちの心にあるさまざまの祈りは「御国が来ますように。」という祈りに集約されることを学びます。

  3. その3「どんなことにも感謝しなさい。」

    「感謝します」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  4. その4「わたしを憐れんでください。」

    「あわれんで下さい/顧みて下さい」」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  5. その5「わたしたちを……悪い者から救ってください。」

    「お赦し下さい」と「お助け下さい/お救い下さい」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  6. その6「いと高き神に……祝福されますように。」

    「祝福して下さい」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  7. その7「わたしはあなたを……導き出した主である。」

    「導いて下さい」と「お守り下さい」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  8. その8「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

    「お与え下さい」と「取り除けて下さい」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  9. その9「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

    「癒して下さい」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  10. その10「わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを。」

    「信じます」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  11. その11「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

    「悔い改めます」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  12. その12「互いに愛し合いなさい。」

    「赦します」と「愛します」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  13. その13「神があなたがたのことを心配してくださる」

    「献げます」と「ゆだねます」の祈りに込められた信仰とその具体的な用法を学びます。

  14. その14「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、」

    実際に自由祈祷を告白する際に必要なのはひとつのテーマと統一された信仰であることを学びます。何をどう祈るのがふさわしいか聖霊によって導いていただく具体的な方法を学びます。

  15. その15「正しい人の祈りは、大きな力があり、」

    告白する場面の違いによって3種類の祈りがあることを学びます。特に代祷において告白すべき信仰に3種類あることを学び、どうすれば代祷が冗長で空疎なものに陥らずに済むかを学びます。

  16. その16「信者たちは皆一つになって、」

    祈る際の姿勢・所作の問題について考えます。また特別の祈りを献げるのにふさわしい時について考えます。

  17. その17「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う。」

    神は私たちの祈りを聞いて下さるか、聞いて下さらない場合私たちはそれをどう受けとめるべきかについて学びます。

  18. あとがきに代えて

    この記事を読まれた兄姉から寄せられるであろう質問とそれに対する回答をいくつか挙げてみました。

クリスチャン、『クルアーン』を読む

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(以下に一部をご紹介)

……『クルアーン』自体は啓示を受ける主体を血統の点から語ってはいない。しかし、クリスチャンにとってのイスラームの正統性、というか、イスラームが私たちの神と同じ神を崇める宗教であるかどうか、を考える上で、ムハンマド(マホメット)がイシュマエルの子孫であるかどうかは決して小さな問題ではないとぼくは思う。

イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。(創17:20)

この預言が、「イシュマエル人」の上に、ムハンマドによって実現したのだとしたら、クリスチャンはイスラームあるいはムスリムと敵対することによって、それらあるいは彼らを祝福する神に敵対することになるのではないだろうか?ぼくは上掲『聖書教理ハンドブック』の記述から、クリスチャンになって間もない頃にそういう認識を持ったのである。

一方、イシュマエルに対するこの祝福には、もうひとつの側面がある。ハガルがイシュマエルを産むとき、主の御使いはこう言った。

彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。(創16:12)

イシュマエルの子孫としてのムハンマドが宗教を立てて興った「大いなる国民」は、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対して「こぶしを振りかざ」し「敵対して暮らす」というのである。 ……

……肉によってイサクの子孫であるユダヤ人や、信仰によってイサクの子孫であるクリスチャンにとって、肉あるいは信仰によってイシュマエルの子孫であるムスリムは、同じ神を父に持つ「兄弟」なのだと、ぼくは聖書によって考えてみたいのである。そして「決して和解出来ない兄弟を持つ」よう私たちに定められた神に感謝してみたいのである。それこそ、キリストが「敵」に対してこうしなさいと語られたことは、こうした「兄弟」をこそまず念頭に置いて理解されるべきではないだろうか。

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アッラーを信じる者に『クルアーン』が求めることはきわめてシンプルである。「いま従うか、従わないか」、ただそれだけである。

われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから。」

ところが悪魔[シャイターン]は、2人を躓かせ、かれらが置かれていた(幸福な)場所から離れさせた。われは「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」と言った。

その後、アーダムは、主から御言葉を授かり、主はかれの悔悟を許された。本当にかれ(引用注:アッラー)は、寛大に許される慈悲深い御方であられる。

(第2「雌牛章」35-37節)

『クルアーン』の中では、アーダム(アダム)の罪でさえ、彼自身がアッラーに献げた悔い改めによって赦されてしまう。ここには「原罪」という観念がない。アダムの原罪が存在しないからイエス・キリストの十字架の救いも必要なく、イエス・キリストの十字架の救いも必要ないのでイエス・キリストの神性も必要がない。だから「マルヤムの子イーサー」はただの預言者である。

そして、次のようなシンプルな言い方が可能になる。

イブラーヒーム(引用注:アブラハム)はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった。しかしかれは純正なムスリムであり、多神教徒の仲間ではなかったのである。(第3「イムラーン家章」67節)

これがイスラームである。新約聖書ロマ書(「ローマの信徒への手紙」)を理解するクリスチャンにとって、唖然とするほどシンプルな信仰である。 ……